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多様性は正義か?〜『正欲』を読んで〜

29歳の誕生日。友人が一冊の本を私にプレゼントしてくれた。朝井リョウの『正欲』だ。

この本は、性的マイノリティーである複数の人物と、その周囲の間で軋む人間関係と時代の歪みが、ある一つの事件へと収斂されていく様子を描いた長編小説だ。

性的マイノリティー当事者たちの厭世観と諦観が恐ろしいほど読者を引きつけ、
読者からは

「この作品は、人を生かしもし、殺しもする。これ以上は言葉にできない」ー川谷絵音(ミュージシャン)ー

と評され、
著者の朝井リョウは

生きることと死ぬことが目の前に並んでいるとき、
生きることとを選ぶきっかけになり得るものを
ひとつでも見つけ出したくて書きました

と記している。

本作品はマイノリティ当事者への救いとなったのか、あるいは問題作になるのか、分からないが、
読後の私は、多様性に対する認識が甘かったと猛省した。

この作品が表現したいことは自明であるが、表現したかったものより重要なことは、この本を読んで何を感じるかだと思う。

今回は以下に、少しばかりの雑感を書こうと思う。


多様性の欺瞞

数十年前までは、男尊女卑、優成思想による命の差別が当たり前のように横行されていたが、近年になってようやく法整備と共に差別の是正が(少しずつではあるものの)なされ、ダイバーシティという言葉も登場した。

「命は平等」「多様性のある社会へ」
そんな言葉が言語化できない違和感と共に私の身体に虚しく響く。

確かに命は平等にあるべきで、多様性のある社会は目指されるべきである。
しかし、この違和感は何であっただろうか。

長らく私は、エゴイズムへの嫌悪感のようなものだろうと思っていた。自称インフルエンサー達によって利用され、本質的な問題が素通りされてしまっているような気がしていた。

今、本作品を読んで、その違和感をもっと近い距離で言語化することができるように思う。
作中に出てくる特殊性癖を持った佐々木佳道が書いた文章に

多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。(中略)これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる”自分とは違う”にしか向けられていない言葉です。
想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。

とある。

また作中の特殊性癖を持つ桐生夏月は

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

と考える。

多様性について、自分なりにとても首肯できる考え方だと思った。
恐らく私が感じていた“多様性”や“ダイバーシティ”という言葉を発する人たちへの違和感とは、話者の想像し得る範囲内での多様性に留まり、想定外のものへは排他的な態度を取る/無視するのではないかという疑問であった。

当然、そのような違和感を全く抱かない人にも出会う。
その人が発する“多様性”という言葉には、数々の現場での経験知と、受け入れがたいものさえも受け入れる姿勢を諦めないという覚悟があった。

もしかすると、私も今まで、多様性という言葉を安易に利用し、却ってマイノリティを排除する側に立っていたのではないか。
読後の私はそんなことをぐるぐると考えていた。


たとえ人間社会がある人を異常であると決めつけ、その差別や排除が是正されなくとも、芸術や宗教の世界では、全ての人は自由であるべきである。

全ての命は平等である
という仏の慈悲を頂く仏教者は、当然、生きとし生けるもの全てが平等であると説く。

仏教者は自らが煩悩に侵され、思い通りに言動できなくとも、なるべく仏に倣い、全ての命に対して平等に接さなければならない。

仏教者は説く。
「全ての命は平等である」と。

しかし、そのように説く仏教者の言葉に、世間に蔓延る多様性という言葉と同様に、違和感や空虚さが感じられる時がある。理由は、やはり、その仏教者に対し、想定外のものを眼前にしても受け入れる覚悟が感じられないからだ。

そもそも仏教の持つ平等性の根拠はどこにあるだろうか。
よく引用される仏典は、浄土三部経の中の『仏説阿弥陀経』にある

池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔
(お浄土にある池には蓮華が咲き、その花々は車輪のような大きさで、一つとして同じ色はない。青色の華は青い光、黄色の華は黄色い光、赤色の華は赤い光、白色の華は白い光を出して輝き、清らかな香りを放っている。)

という一節である。命の平等性や尊厳性を説く時に度々引用される。

経典の言葉は須らく仏の言葉そのものであるので、仏の言葉は仏の言葉として、その通りに頂くのが仏教徒の姿勢である。
しかし、この言葉を説く仏教者が他者を排除するような姿勢ならば、経典の言葉は空虚に響く。

「白色白光。全ての命はお浄土の華のように、それぞれ輝いているんですよ」
と説きながら、性的マイノリティや特殊性癖者、幼児愛者、老人性愛者、マミフィケーションフェチ、死体フェチ、オブジェクトフィリア、スカトロジー……数々ある世界を目の前にした時、「それは異常である」という態度を取らないだろうか。

自らに内在する差別性を無視して、命の平等性を説くのは仏教徒として誠実な態度なのだろうか。


みんな違ってみんないい、でいいのか?

本作品には、一つの分岐点がある。異性愛者でありながらも男性の目線に恐怖を感じる神戸八重子が、ミスコンに選出されながらも特殊性癖を持つゆえに、学校の友人らとの繋がりを断とうとする諸橋大也の家の前に現れるシーンだ。

諸橋は同じような特殊性癖を持つ人とネットで出会い、直接会う約束をしていた日だった。しかし、神戸と諸橋が所属するゼミ合宿の当日でもあり、神戸は学校との繋がりを断とうとする諸橋を引き留めに家の前に現れたのだ。

互いの感情をぶつけ合う二人。
しかし、最後の最後に、諸橋の気持ちにほんの僅かな変化が現れる。

今まで神戸の言葉全てを否定してきた諸橋だったが、神戸が

私も色々勘違いしていたし、今でも誤解していることいっぱいあると思う。でも、もうあなたが抱えているものを理解したいと思うのはやめる。ただ、人として違うものを抱えながら生きていくことについては、きっともっと話し合えることがあるよ。(中略)また絶対、ちゃんと話そうね。私のことも、繋がりのうちに数えておいてね。

と言った時、諸橋は自分でも驚くほど素直な気持ちで頷いたのだ。

この感情変化が本作品の大きな分岐点なのだと推察する。


2013年、ニュージーランドで同性婚を認める法案が可決される際に語られた元国会議員ウィリアムソンのスピーチが今年になって反響を呼んでいる。

「反対の多くは穏健派からのものでした。この法案が社会にどのような影響をもたらすのか心配している人たちでした。その気持ちは分かりますし、尊重もします。彼らは自分たちの家族に『何か』が起こることを心配していました。そこで、繰り返しになりますが申し上げます。今、私たちがやろうとしていることは、『愛し合う2人の人が結婚できるようにしよう』ただそれだけです。外国に核戦争をしかけるわけでも、農作物を一掃するウイルスをばら撒こうとしているわけでもありません」

とても熱を帯びたスピーチ。SNS上で拡散され、称賛の声が多く寄せられた。

この法案は当事者にとっては素晴らしいものですが、そうでない人には今までどおりの生活が続くだけです

特にこの一節が反響を呼び、賛同する声が多かった。

しかし、あるPodcastを聴いていた時、たまたまこの一節が取り上げられた。MCはこの発言に疑問を呈しており、その意見がとても興味深いものだった。

そのPodcastとは、今年も表参道へライブに行くほど注目しているバンドLaura Day Romanceのボーカル井上花月とBROTHER SUN SISTER MOONのベース惠愛由がMCを務める「Call If You Need Me」だ。

勿論、ウィリアムソン議員のスピーチは、長年同性婚が合法化されず、当事者への耐えられないヘイトが蔓延していた背景があった中での発言である。

しかし、「そうでない人には今までどおりの生活が続くだけ」という語り口調は、つまるところ、マイノリティの人はマイノリティの人たちだけで勝手に生きればいいじゃないか(私達には関係ないし)、という主張を含んでおり、分断の溝を深くするのではないか、ということだ。

みんな違ってみんないい、とは、詩人金子みすゞの有名な詩「私と小鳥と鈴と」の一節で、これも多様性が語られる文脈でしばしば引用されるが、

“私”と“あなた”は「関係がないから、それぞれ好きにすればいい」と、繋がりが分断されるものを多様性と呼ぶのなら、私は多様性というものを拒みたい。みんな違ってみんないい、でいいのか。

私も小鳥も鈴も、それぞれ異なっている。互いを共感できない部分も多くある。
しかし、小鳥のさえずりが朝の世界を目覚まさせるように、鈴がクリスマスの夜を彩るように、互いが互いを支え合って、迷惑をかけ合って生きる中で、それぞれの生き方が肯定されるべきなのである。「みんな違ってみんないい」とは、そのような言葉なのではないか。

Podcastの中でMC二人は、「連帯」という一つのキーワードを出して、異なる世界の繋がりを模索していた。


差別をしている自覚はあるか

学生時代、ある友人に言われた言葉とその表情が今でも心に引っかかっている。

「おくちゃんは良いよね。何でも出来るし、モテるしさ。」

褒め言葉だった。

予め断っておくが、私は特段器用な訳でも、モテる訳でもない。
しかし、その友人からは、器用でモテるように見えていたという。

そのような言葉を言われる度に、私はむしろ憤りを覚えた。

私は色んなことに挑戦し努力を続けていたつもりだった。癖毛や皮膚の色など様々なコンプレックスを抱えながらも、清潔に見えるように身だしなみを整えたり、服にも気を遣っていた。しかし、最初から何でも出来るように捉えられると、その努力を無視されているような気持ちだった。

「何も出来ないのは、お前が何もしていないからだ」

と逆に友人に叱りつけるような態度を取ったこともあった。
人間はそんな簡単に自分の弱さを認めて変わっていくことのできない生き物であることを知っていながらも。

作中の登場人物、神戸八重子は異性愛者である。しかし、太った容姿にコンプレックスを抱えているがゆえに、多くの選択肢を持っているのに、その選択肢を持つことが出来ない女性だった。

もしかすると、私を褒めてくれた友人の言葉は、神戸八重子のように、選択肢を持ちながらも、その選択肢を自ら手放している、そんな葛藤と不安の中でこぼれ出た雫のような一言だったのかもしれない。あくまで私の想像であるが。。

耳が聞こえる。目が見える。階段を登れる。本を読める。勉強が出来る。サッカーの練習が出来る。努力が出来る。

常に選択肢を選択肢として持てる状態にある私という存在は、ある人にとっては被差別感情を植え付けるような存在であった

いつでも私は、相手に被差別感情を植え付ける側に立ってしまう、ということに気付かされた。

『歎異抄』という有名な仏教書に

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

とあるように、人間とは縁さえあれば、差別であろうと殺人であろうと行う生き物である。良心があるから差別はしない、のではない。縁さえ整えば誰でも加害者になり得る。

「私は差別はしたことがない。今後も絶対することはない。」と標榜する人がいる限り、この世から差別はなくならない。
異なる性的指向を持つ人間の多様性を知るには、まずは差別をする側に立つ自己を見つめるところから始まる。


あなたの手に触れるには

世田谷の尾山台という街に、昔ながらの商店街がある。その商店街は、夕方の16時からはホコ天になり、学生、商店主、住人、子どもたちが色々な形の「遊び」をして賑わっている。

仕掛け人は「おやまちプロジェクト」の代表、高野雄太さんだ。

仕事で高野さんとお会いする機会があり、異文化共生のことについてお酒を交えながら語り合ったことがある。高野さんは中学生になる息子たちもいたが、親と子という立場を超えて、対等な態度で接する様子だった。親子といえど、他人で未知の部分があることを理解しているようだった。

どうすれば、多様な人種や宗教、性別、職業の人々と共に生きていくことができるのか、と頭を悩ませる私に対し、高野さんは

「奥田くん。分かり合うっていうことはね、分かり合えないということを分かり合うっていうことなんだよ。」と教えてくれた。

だからこの人の言葉には温かさを感じられるのだと思った。

以来、「分かり合えないことを分かり合う」という言葉は、私の心の一番大切なポケットにしまわれた。


2015年、渋谷区と世田谷区でパートナーシップ宣誓制度が導入された。以降、200以上の自治体に取り入れられ、日本人口全体のカバー率は5割を超えた。しかし、健康保険の被扶養者や所得税の配偶者控除、法定相続権は受けられず、異性間の夫婦と同じような法的保証はない。

2022年10月、ロシアでは反LGBT法が可決された。世界にはすでに同性カップルに育てられた子どもたちが何十万人も存在している。その事実を知らない人たちだけが「LGBTは反道徳的だ」と主張する。

2021年6月、性的マイノリティへの差別を禁止する与野党合意の法案は自民党によって捨てられた。性的マイノリティへは、あくまでも「理解増進」の範囲内に留めておきたい保守派。

理解できることなど、分かり合えないということぐらいなのに。

今、もう一度、桐生夏生と神戸八重子の言葉を思い出す。

「多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。」

もうあなたが抱えているものを理解したいと思うのはやめる。ただ、人として違うものを抱えながら生きていくことについては、きっともっと話し合えることがあるよ。

想像力の限界が見えたとき、

分かり合えないということに頷けたとき、

僕らはようやく、自分とは異なる他者へ手を差し伸べることができるのだろう。

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Okuda Shogo
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