近況 2024.8.7
自主映画の撮影が始まった。撮影中に撮影しているものの話をするのは好きではないので、じぶんの内的な部分についてだけ書こうと思う。
撮影していると、生を実感するのはやはりこういう時だけだな、と思う。カッコつけている訳でも、天才を装っている訳でもなく自然にそう思う。バイトの勤務毎に辞めるという選択肢が浮かぶ質だし、基本日記も筋トレも三日坊主なのだけれど、映画を撮るときだけは、本当に楽しいなとか今度はこんなことやりたいとか思っている。作家が「じぶんはこれしかできないからやっているだけだ」と言っていて、毎度「舐めんなよ」と思うのだが、最近はそれもそうかもなと思うようになった。ちゃんと朝早く起きて出勤するなんて生活はできそうにない。ただ、そういう人間の中にもちゃんと「それしかできない」ことで食えている人間とそうでない人間がいるということなんだろう。だから、このまま売れなかったら悲惨なんだろうなと思う。
あと、そう思えるのも今やってるのが自主映画、というのは大きいのだろうとも思う。気心の知れた仲間たちとやっているので余計なストレスもないし、自主なので外的な制約もあまりない。なんだかんだ、一人でこうやってパソコンに向かうその延長線で撮れているような気がする。これがプロの現場に行ったら、同じようにはできないだろう。そういう意味ではモラトリーを享受しているだけなのも分かってはいるし、だけど、ちゃんと現場に行こうというふうになる訳でもない。むしろどうにかしてこれを上手く延命する術はないのだろうか、と考えている。うちの大学の詩の先生がぼくの書いた詩を読んで「君は大人を汚いものだと思っていて、大人になることを拒否しているね」と言ったのだが、ぼくのすぐそういうふうに考えるのは確かに大人になることの拒否なんだと思う。でも、ぼくが映画や小説から学んだのは大人にならなくても成熟することは可能だ、ということだったんだと勝手に思っているし、とりあえずどうにもならなくなるまでは今のままでいてみようと思っている。
なんて言いながら、今回のバイトはけっこうつづいていて、はじめて二ヶ月が経ったけど、辞めるという選択肢がチラついたことすらない。それだけでぼくにとっては結構な快挙である。たぶん、ちょうどよくぼーっとできるのがいいんだろう。でもちょっとぼーっとしすぎている気もする。だから、店長とかにはたぶん、無口でちょっと抜けてるやつだと思われている。店長の口調や接し方の端々でそう感じる。でもそ思われているくらいがちょうどいい。またこうやって責任を回避して楽しようとしているのは本当によくないなとも思うんだけど、そう思うのは賢者タイムくらいで、普段はできるだけ楽な方がいいじゃないかと思っているから、当分変えられそうにない。まだ大きなミスもしてないし、このままなんとなく週2をこなしていければいいと思っている。
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最近は蓮實重彦の『監督 小津安二郎』と福尾匠の『眼がスクリーンになるとき』をちょこちょこ読んでいる。しかしここら辺のいわゆるフランス現代思想周りの本って単純なカッコよさがあるよな、と思う。メカとかフィギュアとかにはあまり惹かれてこなかったんだけど、根本のメカニズムとしては戦艦とかガンダムが好きなのと同じメカニズムなような気がする。頭良さそうみたいなスノッブな魅力でもなくて、クラインの壷の図とか単純にじぶんの中の「男の子っぽい」回路が作動しているような気がする。あと、リゾームの図とか。佐々木敦の批評文に惹かれるのもたぶん同じ理由で、「批評時空間を終了する」とか書かれると単純に「カッコいい!」となってしまう。バカだなーと思いつつ、なんかいちばん素朴だしこれでいいよなとも思う。
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あとトリプルファイヤーの新しいアルバム(『EXTRA』)がよかった。情けない声で「焼肉焼いても喋らない/体鍛えても性格変わらない/ハワイに行ったって盛り上がらない/でもお酒を飲むと明るいぜ」なんて言われると笑うしかない。いや本当は他者とのコミュニケーションの難しさとか切実な問題を歌っているのは分かってるんだけど、あからさまに笑えるように出来ているのだから、笑って済ませるべきなんだと思う。それは小島信夫の小説を読む時だってそうで、そりゃあ「戦後の日本とアメリカの関係を〜」とか「父権制の崩壊を〜」とかいくらでも堅苦しく捉えられるんだけど、明らかに笑わそうとしてるんだから、笑うべきだし、笑っておく方が律儀な気がする。
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