エリック・ロメール『海辺のポーリーヌ』論(あるいはスクリーンという「窓」について)
映画というアートフォームにおいて、窓と鏡は重要なモチーフである。それらはどちらもスクリーンのメタファーだからだ。映画館の暗闇の中で光る四角い枠は、壁に取り付けられた窓と類似しており、それと同時に観客であるわれわれを反映する鏡でもある。さらに言えば、そこに映しとられるものが現実とはいささかちがうものになってしまう、という意味でもスクリーンを表象している。映画とは現実の正確な反映ではない。それは結局のところ一秒間に二十四コマの静止画の集積でしかないし、撮影と編集によって恣意的に操作されている。スクリーンのメタファーたる窓もまた、現実の正確な反映ではない。窓は、ガラスを通すことによって風景を歪めてしまうし、光の加減によっては見ている人をガラスが反射して映してしまう。鏡に映るものはもちろん、すべてが反転している。その意味において、窓は鏡の機能を内包しているとも言える。鏡は窓のように、それの奥にあるものを見せてはくれない。一方窓は、観客の奥にある風景と、彼ら自身を同時に映し取ってみせる。だから、窓は鏡でもありうる。鏡は窓ではありえない。さらに、窓にはもう一つの機能が備わっている。それは窓は、簡単に開け閉めすることができるということだ。われわれは開いた窓から飛び出して、現実へ飛び降りることができる。窓はフィクションと現実を貫通させる。だからこそ映画は粗末な作りものでありながら、時にそれ以上の何かを持ちうる。すぐれた映画は、フィクションでありながらも現実に干渉しうる。その意味でも映画は鏡であるまえにまず、窓なのである。
そしてエリック・ロメールの映画『海辺のポーリーヌ』はまさしく、開け閉めされる「窓」の映画である。ポーリーヌと年長の従姉妹のマリオンが車でフランス・ノルマンディにある海辺の別荘にやってくるファースト・カットからすでに、この映画が開け閉めされる窓の映画であるということは明確に示されている。キャメラはまず、木製の簡素な門を捉えている。「言葉多きものは災いの元」というクレチアン・ド・トロワの言葉がエピグラフとして引かれたあと、上手から車がフレームインしてくる。助手席のポーリーヌが車を降りて、門を開ける。映画の開始とふたりのヴァカンスが始まることが、いくぶんメタ的に提示されている──この映画において「開け閉め」が重要なモチーフであることもまた。さらに言えば、この映画のポスターにも使用されている印象的なスチール──開いた窓から身を乗り出しているポーリーヌの横顔──にもそのことは明確に示されている。
『海辺のポーリーヌ』は、「愛」についての映画である。登場人物たちは「愛」についての議論に多くの時間を費やす。愛とは、自己と他者の境を越境するということである。つまり、窓を開けるということ、そこから身を乗り出して他者との空間に飛び降りることだ。人が愛へとむかうとき、窓は必ず開けられている。それが真実の愛であろうが、そうでなかろうが(そもそも「真実の愛」というものがあるのか?ということはさておき)。
ポーリーヌとマリオンは、ビーチでマリオンのかつての恋人であるピエールと出会う。ピエールは、ふたりにアンリを紹介する。アンリは民俗学者であり、ピエールからウィンド・サーフィンを教わっている。その夜、四人はクラブへくり出す。マリオンはアンリと、クラブでキスをして恋におちる。次の日、マリオンは彼女に迫るピエールから逃げるようにビーチを後にする。彼女がむかうのは、アンリの滞在する家である。
上裸のアンリがタイプライターを叩いている。内にいるアンリ。その後ろには、開かれた窓がある。もちろん、そこに現れるのはマリオンだ。彼女は窓から身を乗り出し、こう言う──「待たせた? まず二人きりで会いたくて」。アンリは彼女に「じゃあ 入れよ」と言う。彼女を抱き上げ、窓の外から家の内へと、むこう側からこちら側へ彼女を迎え入れる。そして、アンリは彼女の首筋に口づける。彼女はそれをあしらい、画面の下手側へ──先ほどまでアンリがタイプライターを叩いていた場所に移動する。それまでの熱情に満ちた表情とはうって変わり、ナイーヴな面持ちで彼女は不安を口にする。
「私 すごく恥ずかしいのよ。こんなに早く燃えたのは初めて」
窓を越え、アンリの領域に足を踏み入れた途端に彼女はそう内心を吐露する。「逆に最高だよ」とアンリは答える。そして「両想いならね」と煮え切らないマリオンの手のひらに口づける。「私は行きずりの女にすぎない」と言うマリオンは窓の方へと、その境界線を再びまたいで、じぶんが元いたところへと戻ろうとする。アンリはそれを引き止めるように、彼女の隣にやってくる。ふたりは窓枠に、境界そのものに腰掛けて話し合う。アンリは彼女に、ポーリーヌを含めて彼の家に住むことを提案する。マリオンは渋る。マリオンはそこでアンリにそんなことを言えば、ピエールが嫉妬して騒ぎ出すだろうと告げる。その恋仲になりそうな男性に言うには、いささか気を使う発言をする時、彼女はふたたび家の奥へと歩いていく。対してアンリは、窓枠にどかっと腰かける。その境界線を決して踏み越えさせない、とでもいいたげに。
このように、『海辺のポーリーヌ』において、誰かと誰かが恋におちる時、愛を交わす時、窓は決まって開け放たれている。
ポーリーヌはビーチでウィンド・サーフィンをしている少年、シルヴァンと親しくなる。アンリはふたりを自宅に招く。ふたりはレコードを聴きながら、手を取り合って踊る。ふたりは徐々に躰を絡めあい、親密になっていく。その時、窓はずっと開け放たれている。ふたりが近づき、ふたりの肌が触れ合い、ふたりの体温が一致していく。自己と他者の境目が曖昧になるその時、ふたりを隔てる窓は大きく開かれている。
あるいは、この映画最大の事件を巻き起こすアンリとキャンディ売りのルイゼットの姦通を、ピエールが発見するのはアンリの寝室の窓が開け放たれているからだ。
その事件を発端にするように、四人のヴァカンスは終わる。初めのシーンと対応するようにマリオンとポーリーヌは車で開いた別荘の門を通り抜ける。門を閉めに車を降りたポーリーヌが戻ってきた後、マリオンはこう口火を切る。
「聞いてほしいの」
そして彼女はルイゼットの姦通の相手が誰なのかの決定的な証拠はない、という。アンリが相手でも不思議はない、しかしそんなことは信じたくない、と。
「ウソかもしれないことを悲しむのは間違いよ」
窓を開け放った後に起こることは決して幸福なことばかりとは限らない。それが避暑地でのヴァカンスで起こったような出来事ならばなおさらだ。だからその時、開いていた門を閉じるように、人はその開け放った窓を閉ざさなければいけなくなる。窓を開くことで生まれた愛の、その悲しい結末を人はじぶんの内でしか解決できない。愛が始まる時に開いた窓は愛が終わる時には、それを癒すためのプライベートなスペースとして閉じられる。
われわれはそれを、映画館という暗闇の中の前方に備え付けられた窓から目撃する。われわれにとってその暗闇はプライベートな空間であり、また同時にさまざまな人によって共有される空間でもある。映画館が、中途半端に開け放たれた窓的な空間であるからこそ、われわれは映画を観ることで、内にこもるだけでは見つけられなかった何かを発見できるのである。