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キレられたり殴られたりして当然なひとはいるし、むしろ自分からそっちに誘導してくるひともたくさんいる

(こちらの記事の続きとなります)

人間は集団になると、自動的にその集団内の序列をそれぞれに意識し合うし、順序の認識をすり合わせて、その序列に沿ってお互いへの振る舞いを調整するようになっている。

ひとがいつでもすぐに心を失ったみたいになれてしまって、ひとに嫌なことをしてしまったり、ひとを傷付けるようなことをしてしまうというのは、そういう要因がとても大きいのだと思う。

けれど、そんなふうに、みんなが扱っているようにそのひとを扱うことでほとんど自覚的な悪意もなく相手を傷つけるというパターンでなくても、人は簡単に相手を傷つけるような行動をしてしまうようになっている。

人間は自分の思ったように事が進まないといらいらするものだし、そういうときに、相手を自分の邪魔をしてくるひとのように思ってしまうものなのだろう。

気に入らないことをされたときに、いらいらした気持ちだけで頭の中がいっぱいになってしまうと、相手の気持ちはどうでもいいことにして、相手のやっていることをやめさせて、自分に従わせようと圧力をかけるような態度をとってしまいがちなものなのだろうし、そんなふうに、いらいらしてしまったときに、他人の気持ちを無視して他人を従わせようとしてしまう瞬間というのは、かなり善良なひとでも、嫌なひとや話の通じないひとと関わっていればちょくちょくあるものなのだと思う。

善良なひとならいらいらしないだろうとか、いらいらしたからといって暴力的なことをしないひとじゃないと、善良なひととはいえないんじゃないかとか、そういう理屈っぽいことを思うのかもしれない。

けれど、そういう考え方はまるっきり間違っているんじゃないかと思う。

ひとを怒らせるのが上手いひとであれば、ほとんどどんなひとであっても怒らせることができるものだし、その気になってしまったあとは、殴られるのも平気で相手を侮辱しながら挑発しまくれるようなタイプのひとというのは男でも女でもいる。

たまに暴力事件なんかのニュースとか、家庭内のいざこざについての記事なんかを見ていても、女のひとの方がそういうタイプで、男の側は繰り返し人生で一番侮辱されたと思えるほど侮辱されて、息を荒げながらなんとか殴らないで我慢するのを何度も繰り返して、何十回目でついに殴ってしまったという場合だってあるんだろうなと思ってきた。

そういうケースは存在するのだから、暴力を振るうなんておかしいし、奥さんとか子供を殴るなんて絶対おかしいし、どうしても殴ってしまうのだとしたら、その男が精神的に異常な状態にあるはずだと思ったりするのはまるっきり間違っているのだ。

相手が自分に対してどう思っているのかを確かめるためだったり、もう殴らないという相手の誓いが嘘であることを証明するために、悪意を持って、全身全霊で自分を殴らせようと夢中になって挑発してくるようなひとはいる。

子供だって、こんな感じなら殴らないではいられないだろうなというような子供はちらほらとしているものだろう。

ファストフード店とかで、親子が言い合いになっているけれど、子供が親の言葉も表情も問いかけも何もかも無視していて、自分の気持ちしか感じていない、壁みたいになった奥行きのない顔になっていて、親が自分の言うことを聞くか聞かないかどちらなのかという結果が出るまで、自分はひたすら相手が自分の言うことを聞くように、できるかぎり相手に圧力をかけようとしている状況というのは、たまに目にするものだろう。

そういう光景を見ていると、親も心底から気分を害されていて、すぐにでも子供を殴れてしまいそうな精神状態になっていそうに見えることも多い。

店の中でも子供が痛みで一瞬黙るくらいにしっかりと叩いたりする親もちょくちょくいるとはいえ、たいていの親はひどい顔になりながらも殴らずに我慢していて、昔ならさっさと殴っただろうに、みんな我慢しているから自分も我慢するしかないと思っているだけだとしても、みんなえらいなと思っていた。

もちろん、強烈に拒絶的な態度を取って、自分の我を通そうとする子供の場合、その親というのも、自分のことしか感じていなさそうな、リラックスした感じの少ないひとが多かったりはするし、そういうときには、これが遺伝の力というものなんだなと、げんなりとした気持ちになったりもする。

発達障害の傾向があって育てにくい子供というのが、発達障害の傾向のある親のところに生まれてくることで、親子どちらにとっても苦労の多い親子関係を過ごすことになるパターンは多いのだろう。

親の側は自分の子供であろうと、ひとの気持ちがいまいちわからないし、自分がどう思うのかということからしか何かを考えられないのだ。

そうなると、自分の気持ちを汲み取って先回りしてくれる気質を持った子供が生まれてきてくれない場合は、自分はどういうつもりで何をしてあげているのにこの子はわかってくれないということばかり考えて、すぐに腹が立ってしまうし、意思疎通もすれ違い続けることになるのだろう。

虐待される子供の中で、発達障害の傾向のある子供の比率はとても高くて、その母親についてはそれほど調査が行われているわけではないけれど、そういう観点で多くのケースを見てきたお医者さんの感覚としては、親も発達障害の傾向のある確率ははっきりと高いということだった。

虐待までいかなかったとしても、親子で発達障害の傾向があったりすると、お互いに自然と同調し合っているというのが基本パターンにもならず、お互いが自分の思うようにいかないことに感情的になって空回りし続けるばかりになって、他人とお互いの気持ちを受け入れ合って、お互いにとっていい考えを選んでいくという感覚を子供が身に付けていけないままになりがちだったりはするのだろう。

そうすると、成長とともに発達障害の傾向はほとんどなくなっていったとしても、自分のことは自分で守らなくてはいけないという感じ方のまま、みんなが自分のしたいことの邪魔をしてくると思いながら、自分がどうしてもしたいことがあったら、とにかくそうできるためにできることを何でもしようとするような行動パターンは残ったままになったりもするのだろう。

そうしたときには、この世で他人を動かすのに最も有効なのは暴力とか脅迫とか威圧なのだし、子供だってそういうことは生まれつきわかっていて、思い切り泣き叫んだり、どれだけ怒鳴られても怒って歯を剥いて、叩かれても睨み返して大きな声を出して、相手に屈服しない自分に夢中になって上気して、明らかに話が通じない状態になることで、相手を諦めさせようとするようなコミュニケーション術を身に付けるようになっていくのかもしれない。

そんなタイプに見える子供が親の言うことに反論し続けたり、すぐ泣こうとしたり、すぐに大きな声で助けを求めるように嫌だ嫌だと言ったりしているのを見ていると、俺が親だったら、そんな態度を取られるたびに殴ってしまうかもなと思っていた。

もちろん、それは親の気持ちを遮断して、親にダメージを与えるつもりでそういうことをやっている子供の側の感情の動きと、それに対して憎しみのような感情が湧き上がってしまっている親の感情の動きを感じ取っているときに、俺なら耐えられないなと思っているわけで、子供が自分の思うようにならないことに怒ったり泣いたりするのが俺には耐えられなさそうだというわけではないのだ。

小さい頃なら、甘ったれた気持ちの中で、自分はそれをしたいのにどうしてそうならないのかと、悲しいという気持ちを伝えるために怒ったり泣いたりしていて、自分でもその感情が爆発して止められなくなっていたりするような状態になるというのは、よくあることなのだろう。

そういうものは、その子供の中での気持ちの動きが今はそういうものなんだなと思いながら、落ち着いてくるまで気持ちに寄り添ってあげていればいいのだろう。

けれど、そういうものとは別に、自分の思い通りにならないことへの怒りに没頭して、自分の邪魔をしてくる相手を排除するために、その排除の身振りに必要な悪意を自分の中に充満させてしまっているような子供もいる。

悪意でいっぱいになってしまえば、相手を攻撃することに自分でも興奮して、相手を倒すために何でもやろうと無心になっていくのだろう。

そういう状態になっている親子を見ているときに、家では殴っているんだろうと思ったり、家の外とはいえ、よく殴らないでいられるなと思ったりするということなのだ。

そういう状態になってしまう子供というのは、親から意地悪なことをされてばかりいることでそうなった場合もあるのかもしれないけれど、多くの場合は、その子供自体が、まわりに同調して、他人との一体感を維持しながらひとと接するような感覚が生まれつき希薄な子供である場合が多いのだろうと思う。

自分が何をしたいと強く思うくらいで頭の中から他人が消えてしまうから、自分が制御できないくらいに気持ちが大きくなってきたときに、相手が親で、それなりに舐めていたときには、そんなふうに手がつけられない状態になってしまうのだろう。

そして、そうなったときには、こうしているとそのうち殴られると思っているから、殴られる恐怖を振り切るためにも、さらに敵意で頭の中をいっぱいにして、捨て身で相手を攻撃することになるのだろう。

俺はそういうタイプの子供を邪悪なものに思いたがっているわけではないのだ。

実際、そういうときの姿というのは、自分が悲しくて泣き叫んでいるようには見えないものだったりする。

誰だって、そういう子供の姿を先入観なしにじっと見詰めてみたのなら、嫌いな相手に対して、このひとに嫌われてもいいと思っていなければできないような顔で、嫌な気持ちにさせようとして泣き叫んでいるようにしか見えないはずなのだ。

その子供自身はそのときたいして何も考えていないとはいえ、そういう状態になった子供の中で動いている感情というのはそういうものなのだ。

俺自身がそういうタイプでもないし、親とも弟とも、そこまで上気して怒り任せに接することがなかったから、そういう態度に慣れていないのはあるのだろう。

大人になってからも、正気を失って悪意に飲まれて挑発してくるようなひとと接したのは、片手で数えられるくらいの回数しかなかった。

だから、いわゆる育てにくい系の子供を見ていると、その子の発している敵意に対して、敵意は敵意だし、それは一線を越えているだろうと感じてしまうし、敵を見る目で見られるのは許せる気がしなくて、よく殴らずにいられるなと思うし、自分ならそのたびに殴ってその態度をやめさせるだろうなと思ってしまうのだろう。

そして、別にその子がそういう感情の盛り上がり方になってしまうタイプのひとだというだけなのはわかっているし、そういう子はよくないとか、矯正が必要だとか思うわけではないのだ。

そういうタイプのひとだからといって、人に喜んでもらいたいという気持ちを中心に生きている大人になっていけたひとはたくさんいるのだし、そういうタイプだから何がいけないということはないのだ。

ただ、放っておくと自分にとっていいようにしようとする子供になるとして、そういう駆け引きが他人に通用すると思ったまま成長するのは、その子供が関わる全てのひとにとって迷惑だろうとは思う。

感情的な闘争に引きずり込んで、その疲れ果てる闘争がどうせ徒労に終わることをちらつかせて、相手に折れさせようと駆け引きすることに慣れ親しんでいるというのは、あまりにも周囲のひとたちみんなにとって有害な人間性だろう。

だったら、親はそういう脅しをかけてくるたびに明白に拒否して、脅しではないものにしか応えてあげないことで、何年かして、そのうちに、自分が欲しいものと自分には与えられないものとがどういう理由で振り分けられているのかということがなんとなくわかってくるのを期待しているとか、そういう育て方をするのが社会のためということになるんだろうなと思う。

もちろん、その親の遺伝情報も含め、そういう親にのもとで生まれ育ったからから、そういうような、できるかぎり自分が思ったようにまわりを動かしたくて闘争や駆け引きをしかけてばかりいる子供になっているケースがほとんどなのだろうし、親にそんな子供に育たないような接し方をするべきだと思っても意味のないことなのだろう。

そして、そういうことを積極的にやってくる人間がたくさんいるということは、そういう人たち以外の人たちにとっても、相手に対して拒絶的な態度を取るとか、場合によっては相手を殴ったり殴ろうとしたりするということは、他人とコミュニケーションを成り立たせるために必要なやり方ということになってくるということでもあるのだろう。

世の中の九割のパワハラは暴力でしかないのだろうけれど、きっと残りの1割くらいは、そういうやり方でしか伝わらない相手と、どっちが折れるか闘争的に圧をかけあっていたのを、パワハラといえばパワハラだからと裁かれたパターンだったりもしているのだろうなと思う。



(続き)

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