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まるで心がないみたいだと思われているひとたち

(こちらの記事の続きとなります)

世の中には、まわりからまるで心がないみたいだと思われているひとたちがいる。

サイコパスとか、アスペルガー症候群だとか思われているような人たちのことがいいわいたけではないのだ。

むしろ、みんなから普通のひとだと思われているし、まともなひとだと思われているし、ちゃんと話が通じるだと思われているひとたちのうち、かなりの割合のひとたちが、自分と似たようなひとたち以外からは、まるで心がないと思われていたりする。

ブサイク扱いされているひとたちとか、役立たずだったりつまらないやつ扱いされているひとたちとか、みんなから低く扱われているひとたちや、そういう人たちが低く扱われている姿を冷たい気持ちで眺めているひとたちからすれば、みんながそのひとを価値の低い人扱いしているからと、悪意もなく、ただ普通のこととして、そのひとを低く扱っている姿というのは、心がないからそうできている姿にしか見えないのだろう。

そういう心がないみたいに思われている普通のひとたちには、発達障害とか愛着障害で、実際にほとんど自分のことしか感じていないひとたちがそれなりに含まれてはいるのだろうけれど、みんながみんな、目の前の他人の痛みを感じ取れないというわけではないのだろう。

ただ、集団のノリがそんなだと、どうしてもそういうノリに流されてしまうという感じなのだろう。

そして、そんなふうにいいわけするんだろうなと思うと、いじめられているひとは、やっぱりみんな本当は心がないんじゃないかと思ったりするのかもしれない。

それでも、いじめの当事者たちは、別にただ単にノリだとしかどうしても思えなかったりして、全く自分が悪いとは思っていなくて、みんながいじめなければ自分はいじめないのに、自分が非難されるのは違うだろうと思っているのだろう。


誰だって、いじめっぽい行為を見てもそれをとがめなかったり、誰かが誰かを嫌な気持ちにさせようとあれこれ言っているのを傍観したりしたことはあるのだろう。

傍観している全員がいじめに加担しているんだと思ったとき、自分もみんなと同じだと思うべきなんだろうか。

積極的にいじめを楽しんでいるひとはともかく、傍観することでいじめに加担しているその他大勢のひとたちというのは、みんなが同じように傍観者をしているわけではない。

帰属意識があまりなくて、表面的に要求される振る舞いをこなしているような場所では、誰もが別のことを思いながらその場にいるのだろう。

自分の友達集団では、その中でダサいひとを本人が嫌がるくらいにしつこくいじって楽しそうにしているひとでも、職場では管理職のひとが出来の悪いひとを人格攻撃しまりながら詰めまくっているのを見て、ひどいやつだなと思っていたりするのだろう。

けれど、自分の気持ちを自分で感じている度合いが強かったり、ひとの気持ちが自然と自分の中に流れ込んできてそれに何か思ってしまう状態が基本ずっと続いてしまうようなひとは、仲のいいひとたちや、ここにいるときの自分が自分らしい自分だと思っているような集団の中で、集団のノリに合わせているときでも、その場のノリとは別のものに気持ちが動かされてしまって、それによって、みんなと同じように振る舞ってはいるけれど、ある程度ノリに合わせながらも、その場のムードとは別に自分の気持ちが動き続けていたりもする。

それこそ、酔っていたり、いらいらしてやけになっていたりでもしないかぎり、個々人のそれぞれの気分への意識を切らして、集団のノリに一体感を感じているだけの状態になれないひともいる。

そういうひとからすると、集まっているみんなの中で、誰かが誰かをバカにしたようなことを言っていると、それがその集団の中ではこれまでも繰り返されてきたパターンの物言いであっても、バカにするひととバカにされるひとのそれぞれの感情の動きを感じてしまって、みんなで笑っている目の前の状況に自分が取り残されるような感覚になったりする。

もちろんそれは、自分だけが繊細かのように思って、自分だけが取り残されているような気分に浸りがちだということではないのだ。

よほどのことがないかぎり、集団から取り残されている感じにはならなくて、いつも状況と同一化しているように見えるひとたちもいれば、そうではないひとたちもいる。

バカにしたりいじめたりするような、集団としては盛り上がっているにしても、みんなが同じ気持ちではない状況を前にしたときに、同じ気持ちではなさを感じ取ってしまうことで、自分の集団への一体感が切れてしまうひとたちがいて、俺はそっち側のグループだったのだと思う。

そっちのグループに入るのか、別のグループに入るのかで、生きていて世界から感じ取っているものはまったく違ってくるのだというのは、わかっておいたほうがいいことなのだろう。


集団の中に入って、集団の一員として行動し始めると、その集団の中で気分よくやっていられるためにしかものが見られなくなってしまうひとというのがたくさんいる。

それは人間という群れで生きる動物としては自然なことなのだろう。

ただ、人間というのは、脳の個体差の中で、ただ群れの内側のあれこれに埋没するひとたちだけではなく、自分は自分だという意識を持つようになって、群れの中の自分だけではなく、群れと自分とか、世界と自分という観点で確かめられる自分を自分そのものに思うようになるひとたちもいた。

そういうひとたちが宗教や哲学が作り出されていって、いろいろな文化の基礎になっていったのだろう。

集団に埋没しきってしまわない傾向というものは、共感や同調がそもそも弱いことによって心理的に集団に一体化できないという場合もあるのだろうし、逆に、集団への同調や共感は働いているけれど、それよりも個人へ共感しようとする意識の方が強かったり、自分の感情に寄り添っている比重が強かったりすることで、集団と一体化はしながらも、ふとするたびに集団になった人間のすぐに心を失ってしまえるグロテスクさにうんざりするという場合もあるのだろう。

哲学者にはかなりの割合でひとの気持ちがあまりわからないひとたちが含まれていたのだろうけれど、仏教でも儒教でも、開祖はたくさんのひとに囲まれて死ぬまでの長い時間を過ごしたのだし、他人の気持ちがわからないひとではなかったはずだし、そういうひとたちが説いていることの多くは、人間の本性と、集団になったときの人間の本性にふりまわされてはいけないということばかりだったりする。

そして、それは集団で生きている人間には難しいことで、文化とか風習のレベルではなく、現実の人付き合いのレベルでは、仏教的なものや儒教的なものは、それをまともに取り入れると世の中でみんなと楽しくわいわいとやることは不可能になるようなものだったりする。

それでも、人間とはどういうものなのかということを考えようとしたときに、長い間ずっと参照されてきたものとはそういうものだった。

そして、ずっとそういうものが大切にされてきたからといって、小集団や個々人の振る舞いとしてではなく、人間全体というか、みんなが争ったり傷付けあったりしながら生きている場所では、そういう理念に基づいて何かが行動されることはめったになくて、ただ建前として都合よく考えが流用されてきたというのがせいぜいのところだったのだ。

それでも、集団に埋没して、集団内のポジション争いのためだけに何かを感じて何かを思って、自分の地位を脅かすひとに敵意をたぎらせているひとたちが、その敵意を集団内に無限に連鎖させていくのを見ていて、これが孔子の言う小人というやつなんだなと思ったり、それと同時に、そういうひとたちにそんなふうに思ったからといって、自分も君子といえるような振る舞いだけを選んで生きていけるわけではないことにうんざりしたりはできる。

うんざりしながら、自分はそのことにどう思っていればいいんだろうということを考えたりすることはできるのだ。

儒教にしろ、仏教にしろ、ひとが人間について何か思ったときに、自分が思ったことと照らし合わせることはできる人間観というものが用意されていて、二千五百年以上、そうやって集団としての人間について何を思えばいいのかということは考えられ続けてきたのだ。

もちろん、そういうことを感じて、自分の感じ方を世の中にどう折り合わせていくのがいいだろうと考えたりするひとは世の中にそれほど多くないのだろう。

それなりに共感が強く働いていて、集団に埋没しきれないひとであっても、たいていのひとは、そんなことを思っていても仕方がないからと、歳を取るほどに集団に埋没して、自分が所属している集団の中でどんなふうに振る舞っているのが自分にとってマシなのかということしか考えないようになっていく。

それでも、目の前の相手の感情を感じることをやめてしまわずにいて、他人の感情に自分の感情を動かされるままに生きていられたのなら、集団内での役割とか、その状況の中での損得以外のもので、自分の振る舞いに何かを感じていられるし、どこにいても、誰に対しても、その場限りではない、自分はずっとそうであると思える自分でいられて、そういう自分がいろんな経験の中でだんだんと変わっていくのを確かめながら生きていくことはできる。

いつでも当たり前のように集団に埋没しきってしまうひとたちというのは、そういう感覚とは無縁に生きていく。

そういうひとは、親友とか家族とか恋人とかとの一対一の関係性ですら、その瞬間の相手の人格に何かを感じようという意識はめったに浮かぶことがなくて、今のところの関係性とか、今までそうだった関係性でそうだった役割から相手を見て、関係性と今の状況に対して自分が望む展開に誘導できればいいというようなモチベーションしかなかったりする。

そして、そういう他人へのモチベーションのあり方というのは、小さいときからそうで、思春期になっても、恋人ができてもそうで、職場でもそうで、子供ができても、孫ができてもそんなままでいても、何の不自由もないものだったりはする。

自分が生きているものと、そういうひとたちが生きているものは、ほとんど同じ見た目で、長くない文章にしてみてもかなり同じだったりするけれど、そうだとしても、経験する感情としては、まるっきり違ったものだったりするのだ。

いろんなことがあっていろんな気持ちになったし、昨日の感情の続きが今日どうなっていくのかを確かめるように生きている人もいれば、今日は何をして何が楽しかったし、何をしようとしたけれどうまくいってうれしかったとか、誰がちゃんとやってくれなかったからとても面倒だったとか、そんなふうに出来事とそれが自分にとって満足いくものだったのか不快だったのかということくらいしか感じないで生きている人もいる。

まるで心がないみたいだと思われているひとたちがいるというのはそういうことなのだ。

楽しかったとかうれしかったとか思った通りにいかなくていらいらしたとか、そういう自分の快適さを物差しにした感情くらいしか発生していない顔で生きているひとたちを見ていて、まるで心がないみたいだと思うのは、毎日何か思うたびにくよくよしているような人たちからすれば、どんな感覚で生きているのかわからなさすぎてそう思うしかないことでしかなかったりするのだ。



(続き)


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