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俺の母親には、世の中はひとの気持ちがわからないひとだらけに見えていたのだろう
(こちらの記事の続きとなります)
きっと、ブサイク扱いを受けてきたひとたちには、世の中の大半のひとのことが、ひとの気持ちがわからないひとに見えているのだと思う。
自分が傷付いているのに、それを気にせずにひどいことをし続けてくるし、自分に対してだけじゃなくて、他のブスにも同じことをしているし、きれいなひとに対しても、何の想像力も働かせずにへらへらしているだけにしか見えないのだから、そう思うのは仕方ないことだろう。
女のひとでも過半数くらいはそうなのかもしれないし、男であれば大半のひとが、みんなから特別ブサイクだと思われている人には、ブサイクを見る目でしか見ていないし、ブサイクが言っていることとしてしかその人の話を聞いていないのだ。
そういうひとたちのことを、現実のそれぞれに感情を持った人間の姿が見えていなくて、曇った目で自分の見たいものしか見ていない、全く話の通じない恐ろしい存在にしか思えないのは仕方のないことなのだと思う。
もちろん、ブスからひとの気持ちがわからないと思われているひとたちの多くは、ブスをブス扱いしているときに心がないみたいな状態になっているだけで、自分の仲間とか好きなひとと関わっているときには、相手の気持ちを感じながら、心地よい一体感を維持しようとしながら顔を向けていたりするのだろう。
けれど、ブスをブス扱いしているときには、そのひとは相手を同じ人間だと思っていない状態になっているか、少なくても共感して同調し合う対象だと思っていない状態になっているのだろう。
とはいえ、そういうひとたちというのは、そもそも相手がどう思っているのかを感じる気もなく接しているのだし、自分がどう思っているのか感じていないみたいに接されると恐ろしくなると思われても心外だったりするのだろう。
そういうひとたちは、自分がバカにしたときに相手に傷付かれたような顔をされると反射的に腹を立てていたりするけれど、それだって心外に感じているからなのだろう。
ブサイク扱いされているひとたちだって、親しいひとたちとは、共感し合って、同調し合って生きているのだろうし、それが普通のことだと思っているのだろう。
それなのに、世の中の多くのひとが自分に同調的な態度をとってくれないし、自分の仲間だったり友達であってもいいはずのひとたちからも同調を拒否されて、まるで自分には心がないから何をしてもいいと思っているかのようなことをされ続けるのだ。
自分に対して何を思ったわけでもなくて、ただみんなそうするからそうするという感じで自分をバカにしてこられて、それに対して表情を歪めて、嫌な気持ちでいっぱいになっていても、相手は何か思ってそうしたわけじゃないし、そうしたくてそうしたわけでもないからと、どうでもよさそうな顔で自分を見ていたりする。
もしくは、いじめて自分がダメージを受けている感触をじっくり確かめて、うれしそうな顔をされたりする。
ブス扱いにかぎらず、みんなから蔑みの視線を向けられたり、他人からひどい扱いを受けているひとたちというのは、まるで感情がないみたいなひとたちが、どれくらい感情じゃないもので生きているのかを、最も頻繁に目の当たりにしているひとたちなのだろう。
世の中にはひどいやつがたくさんいるとか、そういうひとにならないようにしたいとか、そんなことが言いたいわけではないのだ。
ブスをブス扱いすることは暴力だけれど、そういう種類の暴力というのは、あらゆる場所で無尽蔵に生み出され続けているような暴力だったりする。
ひどいブス扱いを受けているひとは、いろんなひとがいる中で、特に人間が心を失っている姿をたくさん見ているのだろうけれど、それは程度問題でしかなくて、ブスのひとがあまりに徹底的に心で接してもらえない時間帯が長いというだけだったりする。
俺は自分の友達の大半もブスをブス扱いしていたし、そのうちの半分以上は今でもしているのだろうし、ブスをブス扱いするひとのことをとんでもないやつだと思ったりはしていない。
みんながブス扱いしているのなら、自分もいいかと気軽にやってしまえる程度の暴力だと思っているし、そういう暴力を振るうからと、そのひとのことを見下げたりはしてこなかった。
ひとはみんながやっていることであれば、それが暴力でしかないことであっても気軽にもやってしまう。
人殺しでも同じで、ひとりの人間としてひとりの人間を殺すことは、殺そうとして、命を奪うことがわかっている攻撃をするときに、殺すことの責任が全て自分にあると感じずにはいられないから、まともな神経では殺せないけれど、リンチで殺すなら、自分が殺してしまうかもしれないようなことをやっているわけではなく、みんながやっていることをみんなと一緒にやっているだけだと思って、まともな神経のまま、他人のせいにして殺すかもしれない行為に加担できてしまう。
他人をブス扱いしているのだって、自分の存在をかけて自分の生き方を確かめようとするように他人をブス扱いしているような性格異常者なんてごく一部で、ほとんどのひとは、みんながやっているから自分もやっているというだけなのだ。
だから、時代が変わって、ブス扱いしないひとが増えて、大半のひとがブスをブス扱いしなくなったら、残りのみんなもブス扱いを楽しむのをやめるのだろうし、そうなったとしても、ブスをブス扱いしていたひとのほとんどが、自分が悪いことをしていたなと反省したりはしないのだろう。
というより、ある人が集団の中で軽く扱われていたとして、その当人は他にも自分くらいトロいひとはいるのだし、自分が軽く扱われているのはブサイクだからだと思っているけれど、多くのひとは、みんながそのひとを軽く扱っているから、特に考えなくみんなと同じように特に悪意も込めずに軽く扱っているだけで、その人のことをブサイクだからどうとか思うほどの関心もなかったりする。
誰かがブサイク扱いされて傷付いているとして、そういうことをやっている本人にとっては、その程度のことだったりしてしまうことも多いのだ。
多くのひとが、ちょっとしたことで、すぐに他人といい感じで一緒にいられるようにという気持ちを失って、自分のことしか感じていない状態で他人に何かをしてしまう。
ちょっとした気持ちの流れで、ひとの気持ちも感じていられないようないらいらした気分になって、そのとき自分より劣位のひとがいて、いいタイミングがあったときに、殴ったりするのは自分が責められるからしないけれど、みんながやっているバカに仕方ならバカにしても責められないからと、そういうやり方で気軽にバカにしているというだけなのだ。
子供のやることにケチをつけたり、部下のやったことにいちゃもんをつけたり、腹が立ってくると思ってもいないようなことを相手を傷付けるためだけに言ってしまったり、気に入らないし面倒くさいからと相手がどれだけ傷付いてもまともに話すのを拒否したりするのだって、全く同じような気持ちの流れでやっていることなのだろう。
本人はみんながやっていそうな普通の態度や振る舞いのつもりで、自分が好き勝手に傷付けられる関係性だからと、自分の気分をよくするために傷付けているのだ。
多くの場合、人間の毎日は、そんなふうにして相手への気持ちを失う瞬間にまみれているものなのだろう。
ブスをブス扱いしないというのは、みんながブスをブス扱いしていても自分はしない習慣がついているひとが、習慣としてやっているだけのことでしかないのだ。
何かよくないことをしないようにするというのは、全てそういう習慣づけの結果でしかなかったりするのだろう。
それは単なる習慣というだけで、心とか人格の問題ではないのだし、そういう習慣がないひとが嫌なやつだとかひどいやつだというわけではないし、自分が何かをしないでいられるからといって、それを当たり前のようにやっているひとをバカにしない方がいいのだ。
人間はみんながいじめている間はどうしたって同じようにいじめてしまいがちな動物で、そういう動物性を抑え込んで、したくないことをしないようにするというのは、自分がどういう自分でありたいかというイメージがある場合に可能なことというだけで、楽しいだけでいいひとたちは、いじめるとまわりから責められるようになるまでは、許されているタイプのいじめを楽しみ続けるものだし、それが人間として自然なことですらあるのだ。
自分はどうでありたいと思って、自分らしいとはこういうことだと思って、そうあれるようにと生きていくことはできるけれど、いつでもすぐに心を失ったみたいになれるし、ひとに嫌なことをしてしまうし、ひとを傷付けるようなことをしてしまえるのだ。
むしろ、自分だってちょっと気を抜くだけでひとを傷付けてしまうのだと思って、傷付けてしまう準備をしたうえで生きているようなひとでいられるよう心がけるべきなのだろう。
誰かを蔑んだり、バカにする気持ちがなくても、みんながそうしているようにしているだけで、相手からはみんなと同じように蔑まれたり、バカにされたと感じられてしまうのだ。
そのギャップはとてつもなく大きくて、人間は集団になると、自動的にその集団内の序列をそれぞれに意識し合うし、順序の認識をすり合わせて、その序列に沿ってお互いへの振る舞いを調整するようになる。
バカにするかどうかは別として、集団の中で上位のひとと下位のひとで扱いは違うし、集団が集団として秩序を維持できるように、人間は自然とその順位に応じた扱いでそれぞれを扱うから、相対的に軽い存在として扱われるひとは、必ずでてくるし、そのひとへの接し方としては、軽い存在を扱うのに何となくしっくりくる軽い扱い方が自然と選ばれることになる。
誰もがみんなそういう原理で集団の中での自分を生きているものなのだけれど、かといって、軽く扱われる側は、そのつど傷付いているのだ。
まともに他人への共感が働いているのなら、集団内での地位が低いからと地位が低い人扱いされて、ブサイクだからと、軽く扱うときにブサイク扱いが選ばれることで、より鋭く傷付けられているひとと接していたら、そのひとが傷付いているのをそのつど感じるはずだろう。
現実的に、みんながそんなふうにそのひとを扱っているから当たり前のようにそのひとをそんなふうに扱っている多くのひとたちというのは、みんながそうしているように振る舞っているときには共感能力がまともに働いていないのだし、ブサイクなひとたちには、世の中はひとの気持ちがわからないひとだらけに見えているというのは、どうしたって、そんなふうに思われるのも仕方のないことなのだ。
(続き)