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ひとは自分の遺伝情報がそうであるものとそっくりに育つ

ひとは自分の遺伝情報がそうであるものとそっくりに育つ。

生まれ持った遺伝情報が全く同じ一卵性双生児は驚くほどそっくりに生まれ育って、大人になってばらばらに生活するようになって何年経っても、片割れと人違いされるほどに、ひとは自分の遺伝情報とそっくりなことをやめられない。

どう生きるかは遺伝しないとしても、心の動き方も含めて、どんな身体性の人間になっていくのかということでは、どうしたってそういうものなのだ。

もちろん、親子で遺伝情報が構成要素として半分一緒なくらいだと、一卵性双生児の半分すらも似ないというのはそうなのだろう。

けれど、そんなにまでも生まれ持った遺伝情報で決まってしまうのなら、親子だって、どこがどれくらいどんなふうに似ているのかはわからなくても、親から引き継いでしまったものによって、そうなるべくしてそういう人間になってしまっているところがたくさんあるということなのだ。

俺がそんなふうに思うようになったのは、けっこう最近のことで、ちょっと前に双子研究をしているひとが書いた、心は遺伝するのかということについての本を読むまでは、どれくらい自分が自分の遺伝情報とそっくりになるのかということを俺は全然わかっていなかった。

その本には、育った家庭環境とか、どういう教育を受けたかということで自分の性格が形作られたり能力が鍛えられたりする以上に、人間は自動的に自分の遺伝情報がそうであるような人間になっていくということが書かれていて、そんなにまでそうなのかと、それを読んでずいぶんと驚いた。

今もどんどんいろんな研究が進められているし、十年もすれば、俺が今なんとなくそういうものなのだろうと思っている遺伝についての常識とは全然違うことが常識になっているのだろう。

そもそも、十年後の若い人たちからすれば、俺がそういうことに四十歳も近くなってから驚いたということに驚いてしまうのかもしれない。

けれど、俺はほとんど本を読まない生活をしてきたし、テレビなんかのドキュメンタリーもあれこれ見てきたわけでもなかった。

俺の世代で、特に科学に興味を持つこともなく育ったときには、身体の大きさとか筋肉の発達仕方なんかは生まれつき決まっている要素が強いけれど、それ以外は自分の努力次第で、障害でもなければどんなひとも可能性は無限大だとか、そんなふうに、遺伝というのは身体の問題で、心や人間性にはあまり関連しないものだと思っているのが普通なのだと思う。

少なくても世の中は建前としてそんなふうにしかアナウンスしていなかったし、俺はそれをずっと鵜呑みにしていた。

きっと二十歳の頃でもそう思っていたのだと思う。

どうしようもないひとと関わらないといけなくて関わっているときでも、このひとはこういうひとでしかありえないのだと思ったりせずに、もうこの歳になったらこのままどうにもならないんだろうと思ったりはしつつ、けれど、このひとも親がまともで、子供の頃にいい出会いがあって、何かに夢中で打ち込めて、その仲間もいたりとかすれば、こんなふうにならずにすんだんだろうなとか、大学時代でもそんなふうに思っていたのだと思う。

今から大人になっていくひとたちが体験する状況はだいぶんそれとは変わってくるだろうけれど、俺が育った時代は、世の中のほとんどの場所で、人権とか平等というものが至上命題のように扱われていた。

そして、誰もが等しくかけがえのない命を生きているのだから、誰もが平等に扱われなければいけないというロジックで何事も語られていたから、そもそもひとの能力が生まれながらに決まっているというのは、それがどれだけ統計的に有意だろうと、生まれながらの不平等を認めなくてはいけなくなってしまうから、どうしても認められないこととして無視されていた。

実際、そういう情報は、知的な生活をしていなかった俺の目にはほとんど入ってこなかったのだと思う。

実際は、二十世紀半ばの遺伝子の発見以降、遺伝子の解析と並行して、遺伝についての研究は急速に進んでいって、遺伝の力の圧倒的な強大さはどんどんと明らかにされていったらしい。

けれど、犯罪者の子供が犯罪者になるのかというような研究だったり、白人黒人とかの人種と社会階層を組み合わせた知能の遺伝についての研究だったりしたときには、それを発表した研究者が人種差別主義者だと盛大に非難されて、そういう研究の結果は、スムーズに多くのひとに受け入れられてはいかなかった。

それほど、人権や平等を至上主義とする意識は社会の中で大きなものだったということなのだろう。

それでも、研究者たちは、差別だという非難に対して、白人の高所得者たちと白人の低所得者たちを比較して、人種の問題ではなく知的能力の遺伝による分断が起こっていることを示したり、近年でも、知的能力によって職業や所得だけではなくライフスタイルも全く異なったものに分断され、そのため自分たちにとって好ましい環境を確保しようとして知的能力の高い高所得者が特定のエリアに集住するという結果になっているという研究結果を改めて示したりと、現代社会の不平等な社会階層化の問題が遺伝的に生まれ持った資質によってそうなっているという主張は、いろんな形で繰り返されてきたらしい。

そして、まるで現実がその通りであるかのようだから、それは議論を呼ぶけれど、いまだにそういうことは社会通念化されないままできている。

差別的だとか、人類への侮辱だとか、実証的に正しい正しくないではなく、認めがたい主張だからということで、社会がそれを認めるのを拒否し続けてきたのだ。

そういう知見は、日本でテレビを見ている以外にはたいして情報に触れようともしていなかった俺には届くことがなかった。

俺が二十歳までを過ごしたのは、まだインターネットの利用が大半の一般家庭にまで広まる以前の世界だった。

俺は大人になってからも雑誌や新聞を読んで、気になるネタがあったら紹介されていた専門書を読んでみたりするような生活をしていたわけではなかった。

漫然とテレビを見てそれが世界だと思っていた大学生くらいまでの俺は、呆れるほど素朴に、みんな同じ人間なんだということだけを人間に思っていたんだと思う。

少なくても感受性や想像力や知識の積み重ねだったり、そういうことについては、人間の可能性はみんながみんな無限大だと思っていたし、三歳とか六歳までに脳の機能が作られるから、そこまでの環境や活動で、そのひとの能力の土台が決まってしまうとか、だから幼児期の教育が大事なんだというようなことが言われていたのを、当たり前のようにそういうものなんだろうと思っていた。

三十歳を過ぎてから、遺伝についてのインターネットの記事なんかにたまに触れて、少し何か思うというのを数ヶ月おきとかに繰り返して、時間をかけてだんだんそういうものじゃないんだなと思うようになって、そして、面白かったなと思った記事で紹介されていた本を読んでみたのが、その双子研究者のひとが書いた本だったのだ。

その本は、気質とか性格とか、知的能力とか運動能力とか音楽の才能とか、そういうものがどれくらい生まれ持った遺伝情報で決まっているものなのかということを、双子の研究から導き出そうとしているものだった。

一卵性双生児がどれほど似ているのかということを、二卵性双生児とか、そうではない集団と比較して、どういう性質については、一卵性双生児が圧倒的に似通ってしまうのかということから、遺伝子が何をどれくらい決定付けているのかを統計的に解き明かそうとするものだった。

俺もそういうことについての短くまとめられた記事はいくつか読んでいたし、肉体的な資質や、運動神経とか音楽の才能とか肉体的な感覚と結びつくようなセンスのようなものは、かなりの部分が遺伝子で決まっているんだろうなと思いながら読んでいたけれど、気質や性格のようなものすら、あまりにも遺伝子によって決定付けられていることに驚かされた。

特に、異なる環境で育てられた一卵性双生児が歳を取るほどにどれほど似通っていくのかという研究は、俺はまだそれを読む時点でも、特に性格や知能なんかについては、環境や教育の影響はそれなりに大きいものだと思っていたから、自分の人間観はそんなにも現実とずれていたんだなと、ショックを受けたくらいだった。

双子研究というのはそれなりに歴史があるもののようで、二人育てることが家庭の事情で難しかったりして、一卵性双生児が片方養子に出されたりして別の環境で育つというケースは昔からそれなりにあって、そういう双子がその後どうなったのかを大規模に調査したものがいろんな国にあるということだった。

そして、結果はどの調査でも同じで、身体的な特徴だけではなく、知的な能力なんかも、幼少時には生育環境によって多少のばらつきがあっても、歳を取れば取るほど一卵性双生児は似通った能力レベルになっていくということだった。

それはつまり、子供の頃にはそれなりに環境の影響も大きくあらわれる場合があるけれど、長い時間が経ったあとでは、環境の違いはよい影響も悪い影響もかき消されるほど、そのひとの遺伝的な性質に応じた知的能力の発達具合に落ち着いていくということになのだろう。

それは恐ろしいことだなと思った。

子供のときに人格形成みたいな面でよい教育を受けることができて、前向きで長続きするモチベーションを形成できれば、そこからは自分でさらにその続きとなる必要な勉強を見付けて、それに打ち込んでとつながっていって、そういうひとは年齢を重ねても学ぶことを大事にして、そうではないひととの知的な能力の差はどんどんと開いていくとか、そういうストーリーを思い浮かべてしまうけれど、遺伝の研究結果からしたときには、そういうストーリーが成り立つのは、もともと知的な能力が伸び続けるような遺伝情報を持って生まれた子が教育に恵まれた場合であって、そういう能力に恵まれなかった子供の場合、子供の頃は教えられるままに頑張って、子供の頃は頑張ったら頑張ったぶんだけ他人よりもいい成果を出せるからモチベーションが保てるけれど、そのうちに生まれ持った自力の差で自然と多くのひとに追いつかれ追い越されていってモチベーションを失っていくか、モチベーションは維持されたとしても自分の成長速度がだんだんと自分のポテンシャル通りのレベルに自分を落ち着かせていくということなのだ。

そして逆に、もともと知的な能力が伸び続けるような遺伝情報を持って生まれた子は、教育に恵まれなかった場合であっても、子供の頃は勉強していないわりにできるという程度なところでスタートしつつ、長い時間の中でいろいろなことをやってみる機会を得る中で、どうしたところで自分の知的能力が相対的に高くて、それを活かすことが自分にとって見返りが多いことだと気が付いていくということなのだ。

もしくは、自分が生まれ持った性質として適性のある作業をやってみたときに、それがよくできてしまうことで、そういう作業をしていることが自分にとって心地よくてなって、それを好きになって時間をたくさん使うようになって、結局は自分のポテンシャルの通りのレベルにまで達してしまうというのもあるのだろう。

俺はそんなふうに年齢とともに自分の生まれついた通りのレベルに落ち着いていくようになっていると思って人間を見ていなかった。

もちろん、俺だってそこまでバカじゃなかったから、子供の頃から、頭の出来が違うひとは圧倒的に違うということはわかっていた。

けれど、環境や教育がそこまで影響力がないということは全くわかっていなかった。

その本の中の統計から考えれば、教育というのは、まだ経験や能力の蓄積のない子供のときであれば、賢い子も含めまだみんな蓄積がないから、詰め込めばその時点では上回ることができるというような、見かけ上その子供のポテンシャル以上の成績を出させることができるという程度のものでしかないということだった。

能力は生まれ持ったもので、教育はそれを開花させるための道筋のようなものでしかなく、教育には能力開発のようなことはできないということなのだ。

もちろん、とても高いレベルでの競争となると話が違ってくるのだろう。

そこでは遺伝的なポテンシャルを前提にしたうえで、さらに教育の問題というか、どれだけ早くからいい経験を蓄積して、いい経験をベースにした感じ方や感覚を早く身に付けられるかの勝負だったりするのだろう。

スポーツなんかだと、世界トップになるようなひとたちは、ジュニア年代ですでに突出した存在になっていて、突出した子供としてひたすらにトップの戦いに揉まれ続ける日々を過ごすことで、同じように突出した子供たちとして特権的な経験を積んでのぼりつめたひとたちの領域に入っていく。

東大に入るくらいなら、地頭がよければ予備校にもいかないで受かるひとはたくさんいるのだろうけれど、サッカー選手になってバロンドールをとりたいとしたときには、サッカーを始めるのが中学校以降では、全人類でも突出してサッカーをするうえで必要な身体能力が高いとか、そういう要素でもないかぎり不可能だろう。

今まではいたけれど、今から生まれる世代くらいになってくると、中学以降にサッカーを始めて日本代表になることすらありえないことになっているんじゃないかと思う。

教育とか、環境を用意してあげるということが最もものをいうのは、むしろ世界のトップを争うような世界のことなのだろう。

偏差値七〇までいければいいくらいの競争なら、生まれつきそのジャンルに適性があれば、勝手にそれくらいになってしまうとして、上位千分の一以上とか、偏差値八〇以上の世界で闘うのなら、経験の差が勝負をわけるから、いかに早くから良質な経験を積むことができるのかということが重要になるという感じなのだろう。

それとは別に、その本に書いてあったことだと、遺伝か環境かみたいな問いをたてるなら、むしろ環境すら遺伝だという面もあるということだった。

本人がどのような環境で育つかということすら、本人の遺伝的な要素が強く影響するということで、例えば、遺伝的に知能が高いと勉強した場合にいい成績を収めてより勉強するようになるというよりも、遺伝的な性質によって相対的に長い時間勉強をするようになり、その結果としていい成績を収めることになるという面もあるということだった。

それはつまり、自分の資質が自分をどういう環境に身を置くのかの選択に強く影響するということで、資質があればそれを開花させる道筋すらする自分で切り開いていくというのが実際のところだということなのだろう。

その子自身が気質として勉強することが自然に思えるからそうしていて、勉強に向いている頭をしているから勉強をしているのが楽しいし、周囲よりも成果をあげられることでほめられる楽しみも享受することができる。

そして、子供が楽しそうにやっているからと、親もその子が勉強したい気持ちをサポートできるように環境を整えるようになって、その方向性への成長はより補強されていく。

そうすると、子供が勉強するかどうかは、勉強をさせようとする親の元に生まれて、それが奨励されるという環境があるから勉強するのではないということになる。

親が自然と勉強するようなひとたちで、勉強の成果を享受して成功してきたから勉強することに価値を置いている場合に、その子供は生まれつき勉強することがしっくりくるし、自然ともっと勉強しようとするようになって、親も勉強することを後押しすることで環境も整えられて、その子はより他の子たちよりもいい成績を収めやすくなる、というような流れが、遺伝から考えたときに該当する可能性が高いストーリーとなるのだろう。

十年もすればもっとひどい状態になっているのだろうけれど、高収入の職業が知的労働ばかりになっている現代社会で、世帯の収入と子供の教育レベルが相関関係になっていて、それがむしろより固定化されていく流れが止まらないというのも、機会を与えて奨励すれば勉強して能力をいくらでも向上させられるわけではなくて、逆に、生まれ持った勉強への適性があれば自動的に知的労働に有利な人生のルートを進めるようになっていることで、そもそも有利なひとたちが上位を独占していく状況へと煮詰まっていっているという現象なのだろう。

社会環境が平等なのかは別にして、それは試験や選別時点としては自由な競争によってそうなっているのだし、知的能力と学歴とか、知的能力と高度な知的能力を必要とする仕事に従事していることに、強い相関関係があること自体は問題ではないのかもしれない。

プロスポーツを仕事にするひとたちが身体能力の高いひとたちに占められてしまっていることで、生まれもった身体的能力の差によって、そもそもプロスポーツで食っていける可能性が生まれながらにゼロのひとたちが大量に生み出されているともいえるし、それと同じことなのだろう。

もう何年かすれば別の展開になっていくのだろうけれど、今はアファーマティブアクションみたいなことがいろいろ試されていて、けれど、人種についての不均等を是正しようとして、むしろ人種ごとに同じ学歴になるためだったり、同じようなポストに就くために必要な知能レベルに差が出てきて競争の不公平化になってしまっているとか、なかなかみんなが納得いくようにはなっていない。

ステレオタイプ脅威と言われるような、人種や性別のステレオタイプ的な評価を意識してしまうことで、ステレオタイプが自分に当てはまっているような気持ちになることで、能力が充分に発揮できなくなるような現象があるけれど、人種とか性別とかのダイバーシティみたいなことも、そういう現象が出ないような比率までマイノリティを登用することが環境作りとして大事だったりというのもあるし、不平等な介入をあれこれしたうえでしか、なかなか平等っぽくなっていくことも難しいということなのだろう。

けれど、そういう高度な知的能力が必要となる領域では、平等とか機会均等といえる状態を目指していこうということは社会的に当然のこととなっているのだろうけれど、そもそも一部の知的能力を駆使して行われる職業とそれ以外とで大きな所得差があるということについては、その差は理不尽なものだから是正するべきだと社会的に合意されているわけではない。

儲かっているところがたくさんもらうのはしょうがないのだろうし、労働市場的に需要と供給として自然とそうなっているのだからしょうがないということになっているのだろう。

もうしばらくで、行きつくところまで行って状況は変わっているだろうけれど、今のところは、大半のひとたちは自分も金持ちになりたくて、子供には勉強して金に余裕のある生活をできるルートに乗ってほしいと思っているのだと思う。

特に日本では、今の時点では完全にそうなのだろう。

このまま所得差をベースに社会階層化されていくと、それなりに時間はかかるだろうとしても、日本でもそれぞれにライフスタイルだけではなく、周囲の人々の平均的な知的能力レベルも違えば、日々接する情報も日常的に交わす会話の内容も違ってくるような社会になっていくのだろう。

それは社会階層というより、金が一部の人間に独占されていくのを、自分だってお金をもっと稼ぎたいからとみんなが放置している結果というだけなのだろう。

階層化といっても、金と職業で分断されているだけで、所持金が違うから生活が違うとしか思われていないのだろう。

低所得者と知的能力を要する職業への就業が難しいひとたちが貧民階層に固定されていくような社会の流れがはっきりしてきたとしても、誰もが所持金の多い生活をしたいと思っているだけで、所持金の平等を求めているわけではなくて、自分の所持金が多くなる可能性のある社会がいいと思っているから、平等はいつまでも社会的に求められることがなくて、だからいつまでも階層化はまともに社会問題化されるようにすらなっていかないということなのだろう。

すでに知的能力に差がある集団になっているものが、固定化されたまま世代を経ることでよりその集団ごとの知的能力の差は開いていって、けれど高収入の職業へのアクセスは知的能力が要求されることで遮断されていて、所得と知的能力の低い集団で生まれると高い確率で低収入労働を強制される人生となるような、そういう社会になっていく流れははっきりとあるのだろう。

けれど、そういう流れが止まってほしいと思っているひとは、今の日本には人口の五パーセントもいないだろう。

そうじゃない世の中になったらいいのにと思っているひとはもっといるのだろうけれど、自分もその流れの中でなるべく上位の階層に移動したいと当たり前に思っているひとが九五パーセント以上ではあるのだろうと思う。

今の日本の子供にとってもそうなのかもしれないけれど、俺が子供の頃には、世の中というものが生まれ持った能力をベースに異なる階層へと自然と分断されていくようなものだということは全く教えられなかったし、本も読まずにぼんやりしてたまにテレビを見るくらいの生活をしていると、世の中についてそういうことを言っているひとの言葉も耳に入ってこなかった。

もちろん、イギリスの貴族が特定の身体的特徴の範囲で交配を繰り返して、貴族特有の身体的特徴を持つようになっていることや、ユダヤ人の一部の集団が、知的能力の要求される金融系の職業につくひとが多い状況が続く中でユダヤ人同士で交配を繰り返したことで平均的な知的能力が高くなって、それをベースにして大富豪やノーベル賞受賞者に人口比率をはるかに上回る人数を輩出しているとか、そういうことは大学生くらいの頃には何かで読んで知っていたと思う。

けれど、それは身体的な遺伝とか、運動神経みたいなものとしての知的能力の強さみたいなものが遺伝しただけで、やっぱり知能が高いと成功するひとが多いんだなというくらいにしか思っていなかった。

知的能力は育つ環境で変わってくるもので、かなりの部分は本人の努力次第で決定されるものだとずっと思っていた。

そんなにも俺は世の中というものがわかっていなかった。

そのひとが社会の中でどのような地位や立場に到達できるかは、生まれ持った能力でかなりのことが決定されていて、そして、優位な立場にあるひとたちが、人間の能力がランダムに発現するのではなく遺伝により引き継がれることを利用して、自分たちの集団をより生まれながらに優位となるように自分たちを社会から分断していくということがずっと行われていたのだ。

そして、昔は身体が弱すぎる個体は大人になるまでに死んでいたし、知能が低すぎる個体も早くに死んでしまったり、子供を残せない確率が高くて、下方向への分断は淘汰によって抑制されていたけれど、そういう淘汰圧がなくなって、分断ははっきり加速されていっているのだろう。

知的能力が相対的に低いひとたちが、知的能力や学歴を要求される職業から排除されることで低収入階層として生活することが強制され、知的能力の相対的な低さも遺伝によって引き継がれる場合が多いことで、自分たちの集団を生まれながら不利になるふうに分断されていってしまう。

職業の違いによる収入差によって階層化されているようで、実質的には知的能力で階層化された、遺伝的に自分の生まれた階層が維持される可能性が高い人生を送るという世の中になってきているということなのだ。


(続き)

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