続・美林華飯店での昼飯の自分にとっての特別さ
美林華飯店は夜もめちゃくちゃに美味しかったし、夜のコースでいろんなものをちょこちょこと食べさせてもらうのも、料理を出されるたびに美味しいねと話しながら飲んでいられて、とても幸せなものだった。
けれど、肉体的に幸福感が強烈な体験としては、夜に食べるよりも昼飯のほうがすごかったというのは、俺にとっては目先を変えずに一つのメイン料理を延々と食べながらご飯を食べるのが、一番美林華飯店の味を楽しめる食べ方だったからなのだと思う。
一つの炒め物なり煮物なり揚げ物でご飯をお代わりしながらがつがつ食べているときにこそ、食べるほどに本当に美味しすぎるなと思って、あまりにもうれしい気持ちになっていた。
当然、一つのものでご飯を食べてくると、口はその味に慣れていくし、それが美味しかったとしても、その美味しさへの欠乏感も薄れてくると、口は勝手にその味に飽きてきたような状態になってくる。
けれど、美林華飯店で一つのおかずで延々とご飯を食べていると、飽きてきてその料理の細部が鼻につくような感じも増してきてから、本当にこれはつくづく美味しいなと、より美味しさを強く感じるようになってくるのだ。
だからこそ、あの頃、毎日のように昼飯を食べに行って、毎回一つのおかずをしつこく味わっていた頃の美林華飯店での食事体験が、あまりにも幸福感として人生の中で特別なものになっているのだろう。
逆に言えば、美林華飯店で食べるときには、早く飽きた状態に持っていけたほうが、より美林華飯店ならではのおいしさを満喫できるということになってしまうのだ。
それは三角食べするのではなくばっかり食べをするというようなことではないのだ。
スープを飲んだり、米をもぐもぐしていて、なんとなく塩気を足してもいいかなと思ってザーサイを食べたりとか、そういうことが挟まっていても、ずっと口がメインのおかずを待ち構えているような状態になっているうえで、一口ごとにしっかりと味わっていると、着実に飽きは進んでくる。
俺の場合、それは何を食べていてもそうなのかもしれない。
松屋でカレーライスに牛丼の肉が添えられたものを一回頼んでみたことがあったけれど、ご飯が進みすぎるというか、いつの間にかあっという間に食べ終わってしまった感じになってしまって、カレーだけか牛丼だけのほうがむしろ満足度が高いなと思って、それからは一度もそういうものを頼んだことがない。
カレー屋で食べるときにしても、めったに来ない店だし、せっかくだからと思って、あいがけがあると注文をしてしまいがちだけれど、結局、デリーのように一種類のカレーで、具を楽しむという感じが弱くて、ひたすらカレーの汁を楽しむようにして食べている方が、食べ終わり時点の満足感は高くなっているような気がする。
南インド料理屋でミールスを頼むのは好きだし、旧ヤム邸(中之島と鐵道)はあいがけでもとても好きだし、いろいろあるのが邪魔だというわけではないのだ。
そもそも、旧ヤム邸はあいがけにするのが前提なのだろうし、野菜の風味が前に出たスパイススープを二種類という感じだから、おかずが多すぎる感じがしないのだろう。
ミールスにしたって、野菜の風味が前に出ているものが並ぶというのは同じだから大丈夫なのだろうし、だから、ミールスを食べているにしても、肉系のカレーが複数あって、どれも塩気がご飯が進んでしまうくらいだと、なんとなくバランスが悪いように感じてしまいがちな気がする。
何に対してもそうで、和食の定食だったとしても、漬物が味がきつかったり、酢の物が甘すぎたり、小鉢の煮物もご飯が進むような味だったりすると、いろいろあることがむしろ食事の邪魔のように感じられてくることもある。
美林華飯店で食べているときでも、ご飯とおかずで食べ進めているときに、ザーサイもスープもいらないというか、残したくないから食べないといけないけれど、ご飯とおかずを美味しく食べ続けるためにはむしろ邪魔になるように感じて、タイミングを探してしぶしぶ食べていることがあった。
スープについては、スープのベースが二〇一三年から二〇一四年のどこかで変わってしまう前は、どの曜日の何味のスープであっても、野菜の風味がふんわりした柔らかい味のスープだったから、おかずを味わい続ける邪魔になるようなことはなかった。
むしろ、ついつい飲みすすめてしまって、ご飯をお代わりするときに、お店の人にスープまでお代わりさせられてしまっていたくらいだった。
その頃でもザーサイは同じ味で、ご飯が進まなくもないくらいに味がしっかりしていていて、こんなにしっかりしていなくていいのになとは思っていたけれど、その頃はザーサイの味の強さをスープで洗い流せたから、邪魔に感じるということはなかった。
ただ、美林華飯店の場合、メインのおかずによっては、ご飯をばくばく食べていると、なんとなく口の中の塩気がなんとなく足りないような感じになってくるくらいに、炒め物の塩気が抑えめだったりする場合があって、そういうときには、ご飯をもりもり食べる人にとっては、メインのおかずよりも味の強いザーサイがむしろ口直しになるという機能もあるから、あのザーサイでいいのだろう。
お代わりしながらご飯をたくさん食べるタイプの食事の楽しみ方をしているのだから、ご飯が進むおかずがいろんな種類あったほうが楽しいじゃないかと思う人も世の中には多いのだろうなとは思う。
そういう意味では、俺は刺激が多くて楽しい食事がしたいというより、そのものが美味しかったり、美味しくなかったり、どこか物足りなかったり、自分の好みと違っていたりすることをじっくりと味わって、いろんな気持ちになっていられるのがいいと思っていて、別に楽しさがたくさんあることを素晴らしいことに思ってはいないのかもしれない。
それはきっと、誰かと二人でじっくりと喋っているのと、三人とか大人数でわいわい喋っているのでは、誰かの感情とか人間性に触れられたと感じられる度合いは大きく違っているのと同じようなことなのだろう。
ずっとその対象のことを感じながら、その対象を楽しむために時間を過ごすような状態になっているからこそ、そのものからよりたくさん気持ちを動かすことができるのだというのはあるのだ。
俺は音楽を聞くのも、そのほとんどの時間が、アルバムまるごとを聞くという聞き方で聞いてきたけれど、それにしたって、そのミュージシャンの音楽に飽きてくる感じがしてくるような状態になって聞いている方が心地よかったからというのはあったのだと思う。
美林華飯店で昼飯を食べるにも、恋人とか特別仲のいい人と一緒に行ったときには、おかずを分け合っていたし、そういうときには、二種類とか三種類のおかずでご飯を食べることになった。
もちろんそれはそれでいろいろ食べられる楽しさがあるし、とても満足した食事になるのだ。
けれど、食べ進めてお腹いっぱいになっていくほどに、本当にすごいなと感動してきそうになるのは、やっぱりひとりで一種類のおかずでご飯をがっついているときだった。
きっと、刺激としては、飽きていないもののほうが強いのだろうし、楽しいということなら、目新しさのあるものを飽きがくる前にとっかえひっかえしている方が楽しいのだろう。
俺は楽しさよりも、しっくりきている感じのほうが好きだということで、飽きるほどそのものの感触に浸って、飽きてきたことで、そのもののそういう感じがよりはっきりとうんざりするほどに感じられてきて、それでも他に感じるものもないからそれをだらだらと感じ続けて、けれどそれが気持ちいいというのが、しっくりくるのが心地よい俺にとっては一番どっぷりと気持ちいいということになってしまうのだろう。
けれど、味わえば味わうほど美味しい店なのであれば、最初の一口より最後の一口のほうが美味しいというのはよくあることだし、そういう店はそれなりいろいろあったのだと思う。
飽きれば飽きるほど美味しくなってくる食事体験が特別なものだとして、美林華飯店の何がそんなに自分にとって特殊だったのだろうと思う。
味わえば味わうほど美味しい店というのは、それなりにあるようにも思う。
そういう中でも、美林華飯店は特別なんだろうか。
美林華飯店の料理というのは、夜のメニューも含めて、いかにも凝っているとか、いかにも複雑だったり、いかにも刺激的だったりはしないのだと思う。
どれを食べても、すんなりとおいしいのだけれど、口に入れてすぐにガツンと美味しいという感じではなかった。
上海蟹の時期に行って、酔っぱらい蟹を食べたりすると、かなり濃厚で強烈な酒と蟹の風味に驚くけれど、甘みはすぐにきれていくし、酒の風味もベタつかないから、口は風味の強さにすぐに慣れるし、慣れたあとは蟹の風味や触感をねっとりと楽しむのにずっと集中していられた。
凝っているとか、刺激が強い感じではないだけで、風味はむしろどれを食べても豊かだった。
スパイスとかハーブとか薬味的なものではなく、具材とスープと調味料の風味ということだと、多くの店よりもよりくっきりとその風味を感じられるくらいだった。
どぎつい感じが食べ進むほど癖になるとか、そういうバランスとは真逆で、すんなりしていることで、最初は反応すべきところがはっきりしなくて、しばらく普通に美味しいなという感じで漫然と味を感じることになって、そこから味の全体がつかめてくると、これは本当にしっかりと美味しいなという感じになってくる。
そして、そこで終わりにならずに、もっと味わっていこうとすると、何度も口に入れるほどに、はっきりと色んな味や、味の重なりの気持ちよさが感じられるようになってきて、これはすごいとなってくる。
それが飽きてくるほどに高まっていって、最後のひとくちが一番美味しかったというような食べ終わり方になるのだ。
そういう意味では、特殊さよりも豊かさというのが、美林華飯店の美味しさの中心にあるということができるのかもしれない。
どういう味付けにしても、風味のそれぞれが、それぞれの風味を感じたままでいい具合に重なり合ってくれていた。
強い味付けによって、べったりした感じに全体がひとまとまりになってしまって、具材や調味料の風味のそれぞれとしてはよくわからなくなってしまう店というのは多いし、それは多少高いお店でもまったく珍しくなかった。
美林華の場合、ご飯がぎりぎり進まないくらいの塩気に抑えられていても、ご飯のお代わりは無料だし、昼飯時は多くの男性客がご飯をお代わりしていたし、まったく味の弱さや物足りなさは感じないくらいに調味料は使われていて、味が薄いという感じではなかった。
それでも、回鍋肉のように、油がたっぷりで、にんにくがしっかりときいていて、豆板醤も使ってあるようなメニューであったとしても、豊かな風味の、そのそれぞれを一つづつ感じられて、その重なり合いに心地よくなれるようになっていた。
口の中にいろんな風味をそれぞれにはっきりと感じられるというのは、どの店でもそんなふうに味わえるものではないのだ。
一口目からしっかりと強めに美味しさを感じさせようとしている店だとそうなってしまいがちなのだろうけれど、美味しいし、全体の風味としても美味しい風味がぎゅっと詰まった感じだし、刺激的でもあるのだけれど、味わっていても、それ以上にその奥に行けないというか、その味に慣れてきても、全体としてそういう感じに美味しいという以上に、そのものの美味しさをもっと見付けていける感じになっていかないというのは、それなりに高級で、ちゃんと美味しい店でもよくあった。
美林華飯店の料理は、味がひとまとまりになりすぎていないというか、美味しいものが美味しいやりかたで混ぜ合わされていて、その混ざり合いのちょうどよさを、感じれば感じるほどに実感できるようになっているのだろう。
カルビーのポテトチップスを食べると、カルビーのポテトチップスの味だなという感じになって、それ以上に味わっていく感じにはならないけれど、油と塩だけのポテトチップスを食べていると、味わっているほどに、芋の青っぽさとか、芋のデンプンな感じとか、油の匂いの部分とかが口の中にいっぱいになっていって、そういう具体的ないろんな風味に浸りながら、芋と油のこの感じはやっぱりいいなと楽しんでいられる。
そういうような、しつこく味わうことで材料の風味の重なり合いを延々と感じているような楽しみ方というのは、それなりに多くの人が楽しさをわかるものだろう。
美林華飯店というのは、具材の味がもろにそのまましているような料理ではなく、中華料理の炒め物とか揚げ物とか煮物の風味の豊かさと豪華さで、そんなふうに材料の風味の重なり合いに浸っているような味わい方ができてしまうようになっているのだ。
それはどういうところからきているのだろうと思う。
美林華飯店は、多くの中華料理屋とは、食べているときの口の中での油の感じ方とか、スープの風味の感じ方が違っていたように思う。
全体として美味しく感じているときにも、スープの部分の美味しさも、脂の部分の美味しさも、それぞれを別々に感じ取れていた。
全部がひとまとまりになってしまわなかったり、べったりとした何かの風味によって他の風味が覆われてしまわなかったりするために、いろんなものが調整されているのだろう。
俺は中華料理の調理経験もないし、そういう材料選びや調理法の知識もないから、あくまでただ食べているだけの人間としての感じられ方の話になるけれど、美林華飯店で食べたいろんなものの味を思い出しながら、どんなふうに他の店と口の中での味の仕方が違っていたのかを書いてみたい。
(続き)