無印良品の嘘
ふと気付いた嘘
「自然、当然、無印」
誰もが聞いたことがある、あるいは目にしたことのあるこの無印良品の名コピーは、無印良品の商品が持つミニマルさが、ナチュラルで無為で、無理のない、違和感のないものだということを表現していますが、これは嘘だと思っています。
モノが小さくなるほど規格化が強調されるミニマル
これを感じることができるのは無印良品におけるファッションのエリアのみで、他の日用品、ステーショナリーや食器、バス用品など、プロダクトの商品が小さくなればなるほど、どんどんインダストリアル・規格化された商品が並び、素材はプラスチックが増えていきます。
そしてこの"インダストリアルなミニマルさ"って、無印良品がブランディングで展開するビジュアルとは「真逆」のイメージなんですよね。ブランドビジュアルで強調されるのは商品としてはファッションのみ(そうですよね?このモデルが着てる服は無印のものですよね)(わからない)。
舞台は大自然。ブランド世界観を伝えるにあたり現実味のないロケーションでビジュアルを描くことはよくある手法だが、無印良品はなぜそうなのか?
無印良品の良さは「自然、当然」ではないところ
個人的な無印良品の好きなところは「自然、当然」が連想される生成りや麻の素材のファッションアイテムではなく、規格化されたステーショナリーの病的な美意識です。自宅でも、「ポリプロピレンファイルボックス」をデスク周りで愛用しております。
「ポリプロピレンファイルボックス・スタンダードタイプ・ワイド・A4用ホワイトグレー」の商品名のどこが「自然、当然」なのか。合っているのは「無印」だけじゃないか。そう思ってしまいます。直角や水平垂直は、基本的に自然界にありません。白色は・・・自然界にはあるけれど、いわゆる「アースカラー」ではありません。A4サイズは人間が作った規格です。「ポリプロピレン」ってどうやって作るんですか?原材料が何か、直感的にはよく分からない。いかにも工場で精緻に定められた仕様に則り製作されているプロダクトです。自然はどこに?
でも、僕は思うんですけど、これって実際にすごく便利な商品ですよね。そして美しい。だから商品を批判しているわけではなく、ブランドイメージとの乖離が気になるのです。
そして、僕はこれらの、規格化された無印がクリアに表れているエリアのディスプレイを見ることが大好きです。病的な、ひねくれた美しさとして。「自然、当然」とは別の価値観として。
個人的な好みは別にしても、無印良品の凄まじいところはこの「規格化」を商品の制作に留まらず、店舗オペレーションや商品名の作成方法など、"デザイン"の解釈を業務周りの可能な領域全てに拡張しているところですよね。これを形にしたものが、有名な"MUJIGRAM"でしょう。
私も『無印良品は、仕組みが9割』を読んで、このMUJIGRAMについて知った時は「マジでイカれてるな」という気持ちと「確かに、これがあれば社員は助かるな」という両方の気持ちを感じたことを思い出しました。
現実には、マニュアル不足で困っている会社の方が多そうですもんね。
話を戻すと、「商品レベルを超えた、企業そのものの徹底的な合理化・規格化」「その結果生まれたミニマルデザインの統一」というものは世界のデザイン史や企業史(詳しくは知らないけれど)での一つの達成であると思うんです。でも、これをマス向けのブランディング広告としては推さない。
ブランドと実態の乖離は何かを隠している?
なぜこうしたブランドと実態の(しかも優れているところが)乖離しているのか。この問いを一旦、こう置き換えてみます。無印良品は、実態の何を隠し、何を見せたいのか?
僕はデザインの勉強をしていたこともあり、こうした規格化にある種の「美しさ」を感じますが、そうでない人だっている、ということでしょうか。よく考えてみたらそうかもしれません。「無印良品のベーシックな商品は精緻に整えられた仕様書に則り制作され、それだけでなく、ハンガーラックの並べ方までルール化されているんです」と言われたら「美しい」ではなく「何それ気持ち悪い」という反応だって普通はあるでしょう。
無印のミニマルデザインを表す広告が、その規格化の徹底を示すものであったとしたら、ブランドは「マス向けのシンプル生活雑貨オールジャンルブランド」ではなく「デザインオタク向けのマニアックなブランド」に留まり、企業規模の拡大には繋がらなかったのではないでしょうか。
ついでだが、後者の場合おそらく海外では禅的マインドとトヨタ式のハイブリッドブランドとして紹介されるでしょう(かっこいいね)。
だからおそらく、無印良品は狂ったレベルの規格化をマス向けには隠すことで企業規模の拡大を目指している。そして企業規模の拡大によって、合理化がよりパフォーマンスを発揮する。それがもたらすのは(時代にそぐわない)大量生産・大量消費ですね。
MUJIGRAMを隠さないのはビジネス目線で評価されるから
「いや、無印良品は規格化の徹底を隠していないですよ。現にあなたも知っているじゃないですか。それも一般に販売されている書籍によって。」という意見もあるかもしれません。それも分かる。なぜ、彼らはこれらをブランド乖離を気にすることなく公開するのか?それはマスではなくビジネス/経営者向けには評価されるからですね。
以下の、哲学者の千葉雅也さんと美学者の山内朋樹さんのツイートを見てそう思いました。
規格化・マニュアル化によって「労働者がラクになる」一面は確実にある。でもそれは消費者にとってはどう感じるでしょうか。という話になりますね。"マニュアル通りの仕事"は、消費者目線だとネガティブな意味合いで使われます。最近は、労働の辛さから「羨ましい」という人もいそうな気もしますが。(千葉さんには「洗脳され切っている」と強い言葉でバッサリいかれていますが・・・)
そして確かに、徹底した合理化でのカイゼンでの売上拡大で誰が一番喜ぶのかというと株主ですよね。株式会社は株主ファーストですから、彼らがやっていることは間違っていません。
そして株主に応える責務を持つ経営者。ビジネスで成り上がりたい経営者ワナビー。こうした人たちにとって「無印良品の仕組みは9割」はブッ刺さるわけですね。だからビジネスシーンにおいては書籍化もするし、松井会長はスターなわけです。発信をする。これも売れる。消費者には届けていません。
売上拡大はMUJIGRAMだけでなく広告との掛け合わせ
ただ、カイゼン、合理化は基本的に限られた条件設定の中での考え方ですから、規模の拡大にはまた別のパワーが必要になります。生活用品を作るブランドなんですから、企業イメージを日本中、いや世界中の生活者をターゲットにしないといけないですよ。そこでブランディングです、広告です、という話になるわけですね。
「自然、当然、無印。」という抽象度が高いコピー(そしてなんとなくナチュラルな印象がある)、そして無国籍的な大自然の中でのビジュアルは、規格化の美しさを隠し、商品の対象ターゲットをマスに拡大することに成功している。
語られていないのはここですね。「無印良品は仕組みが9割」なんじゃなくて、「仕組みが5割、見せ方が5割」だと思いますよ。そう言ってあげないと、世界の民藝のような規格化・ミニマルの正反対みたいなプロダクトをサンプリングしたり、古書を販売したりしていることの意味が報われないじゃないですか。
ビジネスシーンにおいて、"Found MUJI"や"アジアの知恵"って語られてるんでしょうか?仕組みの話ばっかりしてません?(私の気のせいでしょうか?)この辺のブランディングも相当の資本が投下されていると思うし、実際にパフォーマンスを発揮しているのだと思うのですが。株主向けには語られているのでしょうか。そして、仕組み化のスターが松井会長だとしたら、見せ方のスターは誰なんでしょうか?
もっと学びたい無印良品と僕のアティチュード
ここまで書いてきて、1人のデザイン愛好家・研究者として、無印良品の本当の仕組み、見せ方の考え方についてもっと学びたいと思いました。
それとまた別に、現在、仕事で体調を崩して療養中の身ということもあり、「労働の規格化は労働者ではなく経営者をラクにする」「それは経営者が労働者のパフォーマンスを管理する優れた手段である」という点についてはもっと考えたいです。千葉先生にカウンセリングをして欲しい。
今の自分は休職中で「会社に貢献する、ちゃんと働くことで生活に充足感を得たい」という考えをベースに、「復帰するならもっと細かく規格化された仕事がしたい」「悩みたくない・苦しみたくない」という思いがあります。そういう時にMUJIGRAMのようなものがある会社は魅力的に見えます。
いや、本当はもう働きたくなくて・・・こうやって本を読んで街を観察して、家事をして文章を書くだけで一生が過ごせたら一番いいんです。でもそれは無理、という前提での、上記の「会社に貢献する・・・」の話になります。
この辺も含めて「MUJIGRAM」「仕組み化」の話をちゃんと学びたい。「工場労働の疎外」みたいな話になるのでしょうか。。
以上、無印良品を歩いて感じたことでした。
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