『第六行仏威儀』第二十二段④〔心の前あり、心の後ろあり〕
〔『正法眼蔵』原文〕
さらに十方通のまなこあり、大地全收のまなこあり。
心のまへあり、心のうしろあり。
かくのごとくの眼耳鼻舌身意、光明功徳の熾然シネンなるゆゑに、
不知有を保任せる三世諸仏あり、却知有を投機せる貍奴白牯リヌビャッコあり。
この巴鼻ハビあり、この眼睛ガンゼイあるは、
法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり。
〔抄私訳〕
「さらに十方通のまなこあり、大地全收のまなこあり。
心のまへあり、心のうしろあり。」とある。
「十方通のまなこ」とは、沙門の一隻眼のことである。「大地全收のまなこ」と言うのと同じことである。「心」の「前後」に、迷ってはならない、「心」を「前後」と言うのである。
「かくのごとくの眼耳鼻舌身意、光明功徳の熾然なるゆゑに、不知有を保任せる三世諸仏あり、却知有を投機せる貍奴白牯あり。」とある。
「かくのごとくの眼耳鼻舌身意」とは、前に言った「眼耳鼻舌身意」等のことである。
「光明功徳の熾然」とは、この「光明」の功徳の盛りに無辺際に照るという意味合いである。十万億土からはるかに照らすという「光明」ではない。
尽「十方」が「光明」であるから、まったく照らされる物がないのである。尽界が光明である道理を、照らすと使うのである。
「三世諸仏」は「不知有」と言い、「貍奴白牯」は「却知有」と言う。大変常軌を逸した言葉と一旦は思われるが、真実を言う時は、仏と「貍奴白牯」は、決して違わないから、今の知不知は、決して日頃の考え方で理解してはならない。知不知に関わらない道理なのである。
「三世諸仏」を知不知と言い、「貍奴白牯」を知不知と言うのである。あれとこれは別物ではないのである。
「この巴鼻あり、この眼睛あるは、法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり。」とある。
この「眼睛」「巴鼻」は、ともに解脱の調度品であるから、道理は「法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり」とあるのである。仏が法を説き、法が仏を説くという道理である。
ここでは、「法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり」と言って、ひたすら法で説き、許すと言われる一筋がある。ただ、この両様の姿はただ一つの道理である。
ある時は仏が法を説くと言われ、ある時は法が仏を説くとも言い、また仏が仏を説く、仏が仏に説かれるとも、無尽の道理がこの下にあるのである。一法を究め尽くせば、このような道理が現れるから、言葉に拘らないのである。
合掌
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