『第六行仏威儀』第二十一段②〔『正法眼蔵』私訳〕〔いかなるかこれ生、いかななるかこれ死〕

聞書私訳〕
/「把定にあまれる把定あり、放行にあまれる放行あり。
その功夫は、いかなるかこれ、これ」とは、
これは「いかなるか」と置いて、「生」だ「死」だ、「身心」だ
「与奪」だ「任違」だなどと言い、「一念万年」まで言う、
この「か」の字を指すのである。

/「一著落在」とは、ただ一という意である。

/「老思而知」とは、一定イチジョウ(確かにそれと決まっていること)を思い定めることである。

〔『正法眼蔵』〕私訳〕
そうであれば、言句の中から則(のり)を見出し、言葉の外に善巧方便ゼンギョウホウベン(相手の素質や性格に応じた方法を巧みに用いて教化すること)を求め、
よくよく撈摝ロウラク(水中のものを網などでこしてすくい取る)してみれば、
把トっても把りきれない道理があり、放っても放ちきれない道理がある。
(しかあれば、句中取則し、言外求巧する再三撈摝、
それ把定にあまれる把定あり、放行にあまれる放行あり。)

その工夫の仕方とは、
生とは何か、死とは何か、身心とは何か、
与える・奪うとは何か、任せる・違背するとは何か。

ほら毎日同じ面門を出入りしているのに一度も逢ったことがないか、
一手を打つ間に落ち無執着のところに身を蔵すと言っても影が表れるか。

法に従って考えれば分かるか、老いて考えれば分かるか、
一顆の明珠であるか、一大蔵経であるか、
一本の拄杖であるか、一枚の面目であるか、
三十年後であるか、一念は万年・万年は一念であるか。
などと参ずることである。

(その功夫は、いかなるかこれ生、いかなるかこれ死、
いかなるかこれ身心、いかなるかこれ与奪、いかなるかこれ任違。
それ同門出入の不相逢なるか、一著落在に蔵身露角なるか。
大慮而解なるか、老思而知なるか、一顆明珠なるか、
一大蔵教なるか、一条拄杖なるか、一枚面目なるか。
三十年後なるか、一念万年なるか。)

〔これらの「なるか」「なるか」はみな疑問ではなく、
その道理もあろう、この道理もあろうということである。〕

このように子細に点検し、点検を子細にすべきである。
(子細に検点し、検点を子細にすべし。)

                                    合掌
                               
追伸:禅僧の動画です。考えがあって自分がない  よければクリックして覗いてください。

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