見出し画像

【題未定】数学教員に必要な力とは何か──早打ち型と詰碁型の狭間で【エッセイ】

 教員にどんな能力が求められるか、この答えは決して一意的なものではない。回答者が教員か、生徒か、あるいは保護者か、という立場によって変わるだろう。仮に教員同士の評価軸においても、校種や対象とする生徒の志望や学力層によってさまざまだ。

 結局のところこうした議論に唯一絶対の解など存在しない。どんな理由を拵えたとしても、本人の立ち位置よってその正解は変化するはずだ。

 しかるにここで私が書くものもまた私の立ち位置や独断と偏見にしか過ぎない。とはいえ同じ立場や視点を共有できる人もいるだろうし、別の視野から見て参考になる可能性もあるだろう。そこで今回は、時間と職務を限定して個人的な考えをまとめたい。具体的に言えば、特に数学教員として、大学受験指導においてどのような能力が求められるか、ということになる。

 私は現在、国公立大学を志望する生徒の記述指導が日々の業務となっている。この仕事をしていると感じるのは、生徒の質問、特に難関、中堅国立大学の入試問題の質問に即応できる学力である。

 これは自身がその大学の入試問題を解いて、完答完解をする能力とはまた異なるものだ。もちろんその能力があって困ることはないが、この段において求められるのは、解答方針を示す、模範解答を読み取って概略を説明できるかという力だ。

 たとえて言うならば、これは囲碁や将棋の早打ちの技術に近いものかもしれない。逆に最後まで解き切る力は詰碁や詰将棋的なスキルともいえる。そして、この追い込みのこの時点、特に多様な進路希望を持った生徒を抱えた学校の教員には前者の能力が求められる。

 その理由は自明で、生徒の進路希望先が多種に分かれているため、事前に準備をするということが実質的に不可能だからだ。加えてこの時期は入試の過去問を各々がそれぞれのペースで進めるため、進捗をこちらの管理下に置くことが難しい。必然、現場で緊急対応するスキルが求められるということになる。

 逆に、例えばほとんどの生徒が同じ大学を受験する、首都圏の超有名進学校のように東大受験者ばかりがクラスにいたり、あるいは地元の国立大学にほとんどが受験するような地方進学校ではまた異なるものが求められるだろう。そうした場合は深い分析能力が即応力よりも必要かもしれない。

 おそらく地方の個人塾など、生徒のレベル帯をそろえることが難しいケースでは私が考える能力が求められる可能性は高いだろう。逆に詰碁的な能力は都心部のレベル別に階層化された予備校の、特に上位層を対象とした講師などには求められる要素かもしれない。

 いずれにしても、これらの能力はどちらも数学教員として指導するにあたって備えておかなければならない能力ではある。個人的に多くの教員や講師を目にしてきたが、その経験で感じるのはどの先生たちもどちらか一方を特に得意とするというケースが多いようだ。

 自身がどちらかと言えば早打ち型だな、と毎年のように感じる。一方で大学受験の指導には詰碁的なじっくり腰を落ち着けたスキルが求められることも事実だ。したがって、自分の弱い部分を補強することは決して間違いではない。そうやって全方向にスキのない指導者になることも理想的ではある。

 ただ一方で。教育現場は決して一人の教員が導くような独善的な場所でないこともまた事実だ。生徒にとって教員という存在は最も身近な他人の大人である。身近な凹凸の目立つ大人との接触は、人間形成において決してマイナスにはならないだろう。

 それぞれの教員が得意なスキルを活かして生徒と多方面から関わることもまた理想的教育の場なのではないかだろうか。なぜならばどんなに優秀な生徒だとしても、彼らを完璧な人間にする教育は存在せず、彼らもまた凹凸のある人間にしかならないのが現実なのだ。大人の不出来を見せることもまた教育の場には必要なのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!