【題未定】ヴォルテールの言葉から現代の言論封殺に向き合う【エッセイ】
令和6年9月20日現在、政権与党の総裁選真っただ中であり、各候補が自身の考える政策や方向性を主張している。この総裁選は実質的には日本国の第102代の総理大臣の指名選挙でもあり、盛り上がりを見せている。その裏で野党第一党の代表選も行われているが対照的に盛り上がりが一切見られない。この原因については与野党の違いもあるが、それ以外の要素も多分に存在する。
その一つは主義や主張、言葉の弱さかもしれない。与党側の場合、候補も多く独自色を打ち出すという方向性からそれぞれの候補の言葉が強いのが印象的だ。また総裁選後はノーサイドとなって挙党体制を作る党の特性もあるのだろう。それに対して野党側は党の基本方針や支持者の方向性から独自色を打ち出しにくいこともあるのではないだろうか。
こうした政治的な主張や主義は誰しもが一家言持っているものだ。一見ノンポリのように見える人においても、言語化していないだけで何らかの筋をや芯は存在するだろう。
そうした主張や主義を自身に見た時、どんな言葉が当てはまるかと考えると、最近思い当たる言葉がある。それは「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉だ。
この言葉は18世紀のフランスの哲学者、ヴォルテールが語ったとされるものだ。より正確に言えばイギリスの作家S・G・タレンタイアが書いた逸話集『ヴォルテールの友人』の中で彼の態度として記したものとされている。したがってヴォルテール自身の言葉ではない可能性が高いようだが、後世の人間が評価したヴォルテールのスタンスを客観的に示す言葉ではないだろうか。
現在はこの言葉に関して、民主主義や表現、言論の自由の原則を強く主張するものとして方々で引用されている。私もまた、この言葉に共感を感じる一人だ。ところが昨今の国内の情勢を見る限りでは、この言葉とは異なる現象が起きつつあるように思える。しかも、いわゆる反体制やリベラルと呼ばれる人々の言論や議論の封殺傾向は目に余るものがある。
例えば憲法改正に関する議論はその典型だ。護憲派と呼ばれる人たちは憲法の改正議論を行うその行為を否定し、議論すべきでないというスタンスである。またキャンセルカルチャーと呼ばれる現象もその代表例だ。かつての差別的な発言や作品でオリンピックの担当を外された例やDHCの不買運動、LGBTに関しての取り扱いなどもその列に名を連ねるだろう。
こうした一方の意見を正義と認識し、異論や議論を封じ込めてしまう行為は民主的なプロセスとは最もかけ離れた行為である。これがまかり通ってしまえば、自由で建設的な議論の土壌は永遠に失われてしまうだろう。
もちろん彼らの言い分を全く理解できないわけではない。憲法を議論する行為自体が改憲を前提とした動きである、という意見もあろう。差別的な言動はいかなるものも許されないという厳しい姿勢も人権擁護の観点からは認められるべきところもある。しかしそれでもなお、私個人の意見としては、議論の扉を閉ざすべきではないと考えるのだ。そうした開かれた議論と言論の自由こそが権利を獲得する源泉となってきたことは歴史が示している通りだ。
だからこそ、私自身はヴォルテールの言葉を旨とした言動を常に意識している。個人レベルでの行動が社会にどの程度反映させられるかは不明だが、目の前の生徒に対しその姿勢の幾ばくかは伝えられるはずだろう。
教育の現場にいる立場として、表現や言論の自由に対し敬意と誇りをもった人間を社会に送り出すことは、社会的責務であると思うのだ。