【題未定】新しい学力観の光と影:学力低下、教育改革の矛盾、そして未来【エッセイ】
最近の風潮として課題解決型、AIを用いた暗記と一線を画する思考力重視の学習というキーワードがもてはやされている。これらが次の世代の生きる力になる、という触れ込みだ。
この点に関してそれを決して否定するつもりはない。外部記憶装置やネットへの常時接続が可能な時代において、単純記憶力の価値は格段に低下した。もちろん覚えていることで検索や調査の速度は格段に上がるため、概略や概形を覚えておくことは依然として重要だが、それがかつてのような価値を持ち合わせないことは誰の目にも明らかだろう。
この話題においてまず主張したいのは、探究型、課題解決型や思考力重視スタイルの学習は間違いなく「学力」が低下するということだ。もちろん個人差が存在し、適性の有無によってその測定結果には差異が発生するにしても、全体的な傾向としては間違いなく低下する。
大学入試センターは現在の、そして今後の共通テストを新しい学力観に基づくテストを志向していると嘯く。たしかにかつての試験と比較して大きく傾向を変えたそれは一見するとか全くの別物である。しかしよくよく見てみれば、解くための基本的な知識や公式、典型的な解法そのものは頭に入れてから試験場に持ち込むことを前提としている問題ばかりだ。もちろん思考力を試すような問題も少数存在するが、それとて前提知識ゼロで解けるようなものは存在しない。結局のところ見栄えを整えただけで、現在も過去と同様の「学力」を問う試験をしているのだ。
したがって、暗記や知識の時間を減らした上で思考力や探究的な学習を行っている以上、全体的な「学力」が低下するのは明らかだ。時間をかけなければ獲得できないものに、時間をかけていないのだから必然的に獲得が覚束ないのは自明の真理だ。
そして残念ながら既存の「学力」を疑わない人は想像以上に多い。それは「学力」にコンプレックスを負ったような大人だけではない。むしろ「学力」自慢であった人ほどその傾向は強いだろう。自身がその制度で能力を示した以上、それと全く異なるベクトルを指標とすることに強い抵抗を感じるのだ。
加えて言えば、「新しい学力観」を重視する進歩的教育者でさえ、実はそのドグマから逃げられていないケースは多い。事実、彼らの多くは試験場で試験をすること自体には決して反対していない。ところが、本当に探究的な学力や課題解決能力を知りたいのであれば、試験を行うこと自体が間違いである。一回限りの試験でその人間の能力をきちんと判断するなどできようはずがない。最低でもある一定期間のインターンシップなどを行わなければ、そうした能力をきちんと判断することは不可能だ。それこそ大学は希望者を全入させて、そこから1割をほどが残るように篩にかけるぐらいでもしなければ、そうした能力を判定できはしないだろう。
結局のところ、「新しい学力観」を謳う多くの人が口にする「学力」は、かつてのそれと全く変わらないものであり、その「学力」問うているにも関わらず、教育方針は「学力」を下げる方向へ向かっているということになるのだ。
ところがここでもう一つの尺度で測ると面白い結果が見えてくる。果たして「学力」が高いことは絶対的に価値があることなのか、ということだ。
この問いに関して明確な答えは存在しない。しかし従来型の「学力」が現代社会、特にここ30年ほどに渡って日本社会を好転させずにいることは事実だ。当時高い「学力」を誇った人たちがリーダーとなった令和の現代において、今なお失われた云十年を繰り返していることからも明らかだろう。
つまり、「学力」を上げる方向へ教育を行うべき社会が、「学力」を下げる方向へシフトしている。しかし決して「学力」が高いことが社会を好転させないために、「学力」を下げることで社会に変革を与える可能性がある、ということになる。この塞翁が馬的な現象をどうとらえるのか言語化が難しく、そもそもその結果がいつ観測できるのかは不明である。ただ、人間社会の抱える矛盾をそのまま抱えているのが人を教え育てる教育行政であるというのは非常に感慨深いものがある。
今後この社会的実験ががいかなる結果を生むのか、現時点では不明だ。私が観測できる時期までに結果を見られることを願いたいところだ。