「勉強をしなくても豊かに暮らせる時代」に、あえて勉強をする理由
私が子供のころは勉強をする目的について多くの大人は同じような言葉を口にしていたように思います。
「将来いい会社に勤めるため」、「安定した仕事について貧しさから解放されるため」といった理由です。
幸福追求のための手段の一つとして学問を修めるという目的は非常に明確でわかりやすい理由づけと言えます。
右肩上がりの成長の時代
右肩上がりで経済成長を遂げている時期はそうした価値観に疑いを持つ必要もなかったのでしょう。
おそらくバブル期あたりに就職した世代がぎりぎりその価値観に当てはまるでしょう。
現役世代の最も上の世代、50代後半の人たちになります。
そうした時代の人たちは、立身出世を夢見て勉強に励むというモデルがあったようです。
安定が約束された時代の終わり
一方、それより下の世代には異なる世界が小さいころから見えていました。
私は1981年生まれの今年41歳になりますが、景気の良い時期という記憶はほとんどありません。
バブル崩壊が1991年、その名残が続いていたのが1992年ごろまでとされていますので、思春期によいニュースを全く聞かなかった世代です。
大企業と呼ばれた会社が社員を切り捨て、終身雇用を止め、リストラが叫ばれていた時に多感な時期を迎えた世代です。現在の30代から50代前半になるでしょうか。
この時代ではそれなりの大学に行かなければ就職も、その後の生活も厳しいという認識がありました。
そして、金銭的にある程度が保証されることが幸福であるという価値観がせめぎ合い、学習へのモチベーションとして機能していました。
一億総貧困時代の豊かさ
それより下の世代は生まれた時から不景気の世代となります。
もちろん一時的に景気が上向きになったことはありましたが、日本社会の高齢化、産業の空洞化、国内情報通信産業の敗北など厳しい現実を突きつけられた世代です。
しかし、彼らは同時に豊かでなくとも幸せを感じる生き方を知っている世代でもあります。現在の10代から20代の人たちになるでしょう。現役の高校生もここに入るように思います。
彼らはサイゼリヤで食事を楽しみ、ユニクロを着て出かけ、自然などのキャンプを楽しむ世代です。これまで豊かだと思われてきた「価格の高さ」に対して価値を見出さない人たちです。
友人と時間、スマホがあれば満足する世界で育ったのが彼らです。
彼らの満足する生活を実現するためには、特に一生懸命に勉強をする必要もなければ、偏差値の高い大学に進学する必要はありません。
つまり、彼らには勉強をする意味が存在しないのです。
「楽しむ」ために
私たちより上の世代は「勝つ」ために勉強していました。
私たちとそれに近い世代は「負けない」ために勉強をしていました。
(もちろんそうでない人も多数いることは知っていますが、そうした危機意識で勉強した人が多数派でしょう)
では現代の若者世代の勉強に対して教員はいかなる理由付けをすることができるでしょうか。
私自身は彼らに対し『「楽しむ」ために勉強をするのだ』と自分の中でロジックを組み立てて話をしています。
彼らはすでに生活に満足しています。いざとなれば行政の支援も存在することを知っているし、その手法もスマホで簡単に調べることが可能です。
要不要で議論をしても響くことがないのです。
だからこそ、自然の原理を「楽しむ」ために自然科学を、社会現象を「楽しむ」ために社会科学を、他者や自分という人間の不思議さを「楽しむ」ために人文科学を勉強するのだと理由付けをしています。
正解は一つではないし、正解など存在しない
もちろんこれは私の私見でしかありません。
正解はこれ一つではないし、正解が存在するかどうかも不明です。
ただ、教員として生徒に勉強する、学ぶことの理由付けの自分なりの解答を、それぞれが持つことが重要だと思います。
そして、その理由付けが詰まるところ「勝ち」、「負け」であればあまりに時代遅れなのではないか、と思うのです。