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従来型の学力獲得は青春の挫折だった
教育改革が叫ばれて何年も経っています。
その間、常に強く主張されてきたのが、主体性やそれを伸ばすためのディスカッションや総合的探究といった教育の推進です。
そうしたものに対し、私自身も期待感を感じますし、今まで伸ばしきれなかったり、可能性を見過ごしていたりした生徒に光を当てることのできる可能性を感じています。
と、同時に多くの標準的な生徒にとっての学力を担保することにつながっているのか不安に感じる部分があります。
学力の定義が変化した
この不安に対し、文科省や識者たちは口をそろえてこう言います。
「学力の定義が変化しているのだから、従来型の暗記中心の学力は意味喪失する」
たしかに、彼らが語る主張はもっともです。
AIやICTが完全に整備された社会にとって、暗記をする行為の意味は極めて低下します。
記憶は外部装置から逐次検索をかけて知識を補い、人間は思考に専念するという未来像です。
50年後には訪れる(早ければ30年後)可能性は十分にあるでしょう。
しかし、そうした学力は明日の入試を乗り越える点数や、5年後の未来で生きる手段となり得るのか、ということは全くの別問題なのです。
優秀な人間とそうでない人間
優秀な人間は次世代型の学力を貯えながらも、従来型の得点能力を維持することは可能です。
結果として、10年以上先を見通しながらセーフランディングをすることができるでしょう。
しかし、そうでない多くの人間はどうでしょうか。
おそらく彼らは黙っていれば単語や文法といった基礎知識を暗記することは難しく、中等数学レベルの計算も何度も練習をしなければ身につかない程度の知能しか持ち合わせていません。
(というよりもそれが一般的な人間の知的レベルです)
そうした人にとって目先の進学先や就職先は生きる糧を得るために極めて重要な意味を持っています。
ところが新しい学力観の啓蒙は、彼らに現実を見せないような効果を持っているようにも感じているのです。
あなたは何者でもない
多くの人間は、社会や他の人間にとって大した存在ではありません。
これは愛情や友情の話ではなく、実際問題として一人の個人の価値は人類全体にとって大した意味を持っていないということです。
ところが、最近の教育を受けた生徒の多くは自分が特別な「only one」であるという認識を持っています。
そうした自己肯定感を持つこと自体は間違いではありませんが、それは個人の価値のであり、人間という種の中の一個体としての価値ではないのです。
普通の学校に、普通に通う高校生が一個体としての目を引く優秀さがないのは明らかです。
ところがそれを往々にして勘違いしているケースが多いように思うのです。
自分が何者かであるという幻想
投資市場が拡大し、一般化したことで多くの労働者が自分たちがあたかも資本家であるという幻想を抱いている、という話を経済思想史家の斎藤幸平氏は語っています。
このような傾向は教育にも同じであるように感じます。
教育制度が普及し、一般化したこと多くの凡才が自分たちがあたかも秀才であるという幻想抱いて行動をとっているということです。
秀才が旧来型の学力を前提として、次世代型の学力を重視しているのに対し、凡才が見様見真似で次世代型の学力を得ようと努力をしても知識や原理の理解が不十分のため、その効果は限定的でしょう。
学ぶ行為が青春の挫折を経験させる
従来型の学びの最も優れた点は、その過程で青春の挫折を経験させることにあるように感じています。
受験での不合格もそうですし、厳然たる能力の差を見せつけられるシーンを見ることで、自分が凡才であるという気づきを得て、自身のアイデンティティを問い直すという、現代の通過儀礼として存在していたように思います。
しかし、次世代型の学力観はそうした挫折を経験せず全肯定を受けるか、あるいは無適性のために自分の存在そのものの全否定を受けるかの二択になりやすく、その欠点を乗り越える必要があるのではないでしょうか。