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熊本文壇の巨星墜つ:渡辺京二氏、死去

先日、訃報が飛び込んできました。

日本近代史家の渡辺京二氏がお亡くなりになりました。

92歳まで存命だったことも驚きですが、偉大な業績の方を失った衝撃はさらに大きいものです。

「渡辺京二」とは

「渡辺京二」という名前を知らない人も多いと思いますので、ざっくりと来歴、業績を紹介しようと思います。

日活映画の活動弁士であった父・次郎と母・かね子の子として京都府紀伊郡深草町(現:京都市伏見区深草)に生まれる 。誕生日は8月1日となっているが、これは出生届の提出時に父が間違えたもので、実際の誕生は9月1日という。
1938年(昭和13年)、当時かの地で映画館の支配人をしていた父を追って中国・北京に移住、その二年後に大連に移り、南山麓小学校から大連第一中学校へ進む。1947年(昭和22年)、大連から日本へ引揚げ、戦災で母の実家が身を寄せていた菩提寺の六畳間に寄寓する。
旧制熊本中学校に通い、1948年(昭和23年)、日本共産党に入党する。同年第五高等学校に入学するが、翌1949年(昭和24年)結核を発症、国立結核療養所に入所し、1953年(昭和28年)までの約四年半をそこで過ごした。1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する。
法政大学社会学部卒業。書評紙日本読書新聞編集者、河合塾福岡校講師を経て、河合文化教育研究所主任研究員。2010年には熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授に就いた。

Wikipediaより

旧制熊本中学校(現在の熊本県立熊本高等学校)から第五高等学校(現在の熊本大学)に進学するなど、熊本とゆかりの深い人物です。

私の直系の先輩にもあたり、個人的には親近感を感じています。

その著作はいくつもの賞を受賞しています。

  • 『北一輝』第33回毎日出版文化賞受賞

  • 『逝きし世の面影』第12回和辻哲郎文化賞受賞

  • 『黒船前夜』第37回大佛次郎賞受賞

  • 『バテレンの世紀』第70回読売文学賞を受賞。

外国人から見た近世の日本を描き、日本の近世文化を捉えなおすことで近代日本が抱えた独善性や矛盾を批判する、という著作が多いのが特徴です。

晩年に至るまで熊本市に住み、地方都市という場所で社会や世相を描く活動を続けてきました。在野の著作家、研究者、と呼ぶにふさわしい業績の方です。

「石牟礼道子」との関係

渡辺京二を語る上で「石牟礼道子」の存在は欠かせないでしょう。

石牟礼道子氏は2018年に亡くなられた、小説家、詩人、環境活動家で、日本のレイチェル・カーソンとも呼ばれています。

彼女は水俣病の患者の苦しみを知り、一軒一軒訪ねて回って取材をしたうえで地元紙にそのことを書き上げました。それはのちに、『苦海浄土』という作品として1969年に出版されました。

この著作は第1回大宅壮一ノンフィクション賞にも選出されましたが、受賞を辞退したことでも知られています。

このときに、『熊本風土記』という地元紙を刊行し、『苦海浄土』(連載当時は『海と空の間に』)を掲載をしたのが渡辺京二氏です。

それ以後も水俣病闘争の支え、編集などをサポートするなど、公私にわたって石牟礼氏を支えてきました。

2人の交流は石牟礼氏が亡くなるまで続き、渡辺氏は「石牟礼道子資料保存会」を結成するなど石牟礼文学の普及にも努めました。

在野の隠れた偉人

「渡辺京二」を知っている人は、全国にもいるとは思いますが、やはり地元の隠れた偉人、という点ではもっと名前が知られてほしいという気持ちもあり、この記事を書いています。

もしかすると、熊本の人の方が知らない方が多いかもしれません。

特に和辻哲郎文化賞を受賞した『逝きし世の面影』はもっと世に知られるべき作品であると思っています。

最後になりましたが、渡辺京二氏のご冥福を心よりお祈りいたします。

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