【題未定】「偏差値50」という幻想:ネットに蔓延る誤解を解く【エッセイ】
「偏差値50」未満の大学は不要、ネット民ならば必ず一度は目にしたことがある言葉である。さて、「偏差値50」という言葉をSNSで目にすることがたびたびあるが、この「偏差値50」は計測した数値の直接的な意味ではなく、ある種のメタファーとして使われる用語である。いわゆる学力下位層を揶揄して表現した、受験期の成功体験に由来する自己肯定感を持つ人間が用いる言葉である。
(実際、偏差値50未満の大学を無くしていけば最後の1校になるまで減らし続けなければならない理屈になる)
そもそも大人に対して「偏差値」という用語を用いること自体が適切ではない。それを測るような場所も状況も存在しないからだ。とはいえ何かを読み、調べ理解した上で行動するという能力そのものは学力テストである程度計測できるのも事実だ。少なくともボーダーフリー大学の学生と東大生では理解力を同レベルであるとは決して言えないだろう。
ここではこの言葉を使用する人たちの想定する「偏差値50」と、現実の「偏差値50」の違いを高校現場における実体験をもとに示していこうと思う。その過程を見れば、彼らが想定するものがいかに現実と遠いところにあるかということが分かるはずだ。
一つだけ断っておくと、こうした「偏差値」は生まれ持っての知能の違いを指す指標ではないということだ。あくまでも後天的な学習の成果を表す指標でしかない。したがって努力次第で上下する流動的な数値だ。しかし何らかの学びを記憶と結びつける能力であるのも事実であり、一定の業務を習得する力の指標としては成立することも事実である。
さてこうした用語を使う人たちは「偏差値50」をどの程度と想定しているのだろうか。おそらくではあるが、この手の「偏差値」という表現を使用する人の大半は受験競争のそれなりの勝者であり、自身の偏差値が人並みよりも優れていたと自負する人だろう。したがって彼らの視野は非常に狭く、彼らの考える「偏差値50」はいわゆる日東駒専や大東亜帝國といった大学群に通う人あたりを線引きするラインになるのではないだろうか。
ところが現実の「偏差値50」はそれと大きくかけ離れている。そもそも全国民的に「偏差値50」を当てはめる場合、大学入試ではなく高校入試におけるそれを想定する方が適切である。現在の日本において高校入試はほとんどの人間が参加する競争方式であるからだ。ではその「偏差値50」はどの程度の学力と見るかというと、中学校の学習内容の半分を理解しているレベル、といったところになる。
高校入学時に「偏差値50」を切っている生徒は、その多くが因数分解、平方根の計算が不確かである。漢字は漢検5級(小学校卒業程度)の読みは可能だが、書く方は低学年クラス。英語は単語の知識が少なく、読みが日本語読み、カタカナ読みでbe動詞と一般動詞の区別や使い方が曖昧といった具合だ。これが「偏差値50」未満の実態である。
では彼らが小中学校で落ちこぼれていたこというとそうではない。カラーテスト(小学校のプリントテスト)では80点以上は取っていただろうし、中学校の定期テストでも平均点、学年の半分の順位ぐらいは維持していただろう。つまり標準的な学力の人間は、現行の日本の教育システムにおいては完ぺきに理解、習得できないシステムとなっていると言える。
したがって、「偏差値50」を少々下回るような労働者を想定した場合、何らかの複雑な業務の本一冊ほどの資料を渡したとしても、それを自分で読んで理解し、手順通りにその業務を行うことはかなり難しいと考えられる。ただ、一緒に説明をし、手順と注意点を確認した上で練習を一通り行えばすぐに覚えるぐらいであろう。
ところが学力エリートの言う「偏差値50」は自分で教科書を読めばわかる層を想定している。エリート層からすればわかるものをしないのは努力が足りないという感想なのだろう。しかしこのレベルの学力、学習能力は高校受験における偏差値では最低でも60以上の層である。理想的な正規分布上で言えば1000人のうちの上位200人弱程度となる。これが現実なのだ。
一方でこの「偏差値50」周辺の人達のモラルと勤勉さが高いことが日本の長所でもある。偏差値45-55は1000人のうち、400人程度に相当するマジョリティ層であり、彼らに高い道徳性を身につけさせた教育制度を決して否定はできないだろう。
以上のことからも、ネット上で用いられる「偏差値50」は、受験期に成功した人々が持つ狭い視野に基づいたメタファーであり、実際の教育現場における「偏差値50」の意味とは大きく異なることは明らかである。「偏差値50」という偏見と視野狭窄に満ちた言葉を基準に大学や労働力を語ることは極めて不適切である。
社会をけん引するエリートたる自負のある人たちにおいては、地に足をつけ、社会を支える人達の状況をしっかりと見た上でリーダー足らんとすることを切に願うものである。