「行き過ぎた指導」と「誰かをコントロールしたい」という心理と教員の心構え
教員という仕事の中で、宿題や課題の提出を促したり、遅刻を注意したりすることがあります。
こうしたケースにおいては、往々にして熱心な教員ほど「行き過ぎた指導」に発展することがあるようです。
では、どうしてそうしたことになるのかを考えてみます。
「行き過ぎた指導」は「誰かをコントロールしたい」という心理からくる
「行き過ぎた指導」とはどんなものでしょうか。
生徒側は触れられたくない、教育上の指導としては不必要だ、と感じているのに、教員側が強制的に従わせようとする状況で発生しているのが「行き過ぎた指導」です。
この原因には、生徒は無条件で教員の指導に従うべきである、という学校文化の常識が前提で発生します。
しかし、それだけではなく指導者側が自身では意識していない「誰かをコントロールしたい」という欲求の発露も絡んでいます。
実際、近くで見ていると「行き過ぎた指導」をしがちな教員ほど、誰かを自分のコントロール下に置こうとする行動が目に付きます。
「誰かをコントロールしたい」は善意が源泉
誰かを自分の思うようにコントロールしたいという気持ちは誰にでも存在します。
もちろん、そうした気持ちが単純にエゴの発露だと言ってしまうのは間違いではありません。
しかし、多くの教員は生徒に対して意味もなくエゴを押し付けているわけではありません。
彼らは自分が正しい、生徒は間違っている、彼らを正すために行っているのだと信じており、善意を源泉としています。
彼らは良かれと思って、生徒を無理やり自分の信じる正しさに強制させようとしているのです。
生徒は自分よりも下だという思い込み
こうした行動の本質的な原因は、生徒が年少であり、自分よりも経験が浅く、知識が乏しいため、自ら教え諭してあげなければならない、という思い込みです。
彼らにとって、生徒は自分より判断力や思考力が劣った存在であり、教え導く必要があると考えているのです。
もちろん、学齢によってその知識などには差があるでしょう。
しかし、生徒たちは教員が思い込んでいるほどには愚かでなければ、判断力や思考力が低いわけではないのです。
特に高校生であれば、大人が想像している以上に彼らは様々なことに悩み、考え、決断して日常を戦っています。
(自分たちもそうであったはずなのに、多くの人はそういった記憶が雲散霧消しています)
「他人は自分の思うようにならない」という前提
「行き過ぎた指導」は結局のところ、日本的学校文化の長幼の序などの儒教的精神を土壌として、支配欲求が生み出したものではないでしょうか。
教員が生徒のような年少者と向き合う場合、かならず意識をしなければならないのは「他人は自分の思うようにならない」という、当たり前のことを常に前提としておくことでしょう。
教員が忘れがちであり、私自身も反省しなければならないことのように思います。