脱・「ゆっくり丁寧に」至上主義
丁寧さが評価される学校現場
字を丁寧に書きなさい、計算は丁寧に、掃除は丁寧に、こうした言葉は小学生の時分からよく聞いたフレーズです。
経験則的にも、丁寧であるということは学校文化においては評価される指標の一つでしょう。
もちろん、そうした活動自体を丁寧に行うこと自体は決して悪いことではありませんし、雑にするよりも好ましいのは事実です。
しかし、こうした価値観が一般化した結果、個人の学習行動においても丁寧さに価値があると信じ込んでしまう人は少なくありません。
「ゆっくり丁寧に」しても暗記できない
生徒の勉強している姿を見ていると気づくことがいくつかあります。
その中でも目立つことの一つが、真面目でこつこつと努力する生徒の成績が伸び悩んでいるということです。
彼らの学習の様子を見ると特徴的なのはノートに書き写してまとめたり、色を工夫して見やすいように考えてノートテイクを行う、話をしっかりと聞いてから手を動かすなど「ゆっくり丁寧に」学習をしていることです。
一方でそれほどしっかりと学習しているようには見えない生徒で、上述の彼らよりも成績が良い、模試などの実力テスト以外においても単語の暗記や小テストなどの暗記ものにも強いというタイプが存在します。
後者のタイプは明らかに前者よりも学習時間が少ないにも関わらず、短期的な記憶テストにおいてさえも差がついています。
これはどうしてなのでしょうか。
記憶こそ「雑に速く」
この点に関して「百ます計算」で有名な陰山英男氏は対談の中で以下のように語っています。
私は彼の言をすべて妄信する信者ではありませんが、この内容に関しては完全に同意します。
記憶する、考えるときはいかに速度を持たせるか、という観点で学習をする必要があると思います。
「雑に速く」を何周も繰り返すことが、最終的に記憶の定着に繋がることは経験則的にも間違いありません。
(何周もしなくても記憶が可能な「優秀」な人は極少数存在しますが、彼らをモデルにすることは無意味です。)
生徒に合わせたスピード、語彙は要注意
学齢が低いケースで見られるのが、生徒に合わせ過ぎた速度や語彙を用いる授業や教員の声掛けです。
もちろん、伝わる、理解できるということを意識することは大事ですが、その結果個人の思考スピードや語彙力を制限している状況が発生してはいないでしょうか。
全員が余裕をもってわかる授業スピードは、誰の脳にも負荷がかからない優しい授業ですが、それは個人の成長を阻害しています。
誰もが分かる言葉遣いでしか話さない教員の声掛けは、新しい言葉を覚えるモチベーションやきっかけを失わせることになっています。
言うまでもないことですが、あまりにも早い、難解な言葉遣いは問題外です。
しかし、子供が少し難しい、早いと感じたり、知らない言葉を聞いたりする経験を持つことは成長にとって重要なスパイスと成り得るはずです。
そろそろ、子供に配慮し過ぎた「ゆっくり丁寧に」という世界観から脱する時期が来ているのかもしれません。