なぜ彼らは「暗記数学」を嫌悪するのか
ネット上の数学教育界隈では、総じて暗記数学に否定的な人が多いようです。
実社会で考えても、数学教育に一家言ある人ほど「暗記数学」を毛嫌いする傾向にあります。
この理由について考察していきます。
今回の内容はあくまでも大学受験数学に関してのものであり、小学校の算数などの「はじき」や「ドラえもんの鈴」については別問題としています。
教えることを放棄して「暗記」を強制する教員が存在した
最も大きな原因は
「こんなものはお前たちは理解できないから覚えろ」
と言っていた教員の存在でしょう。
以前はそうした職務を放棄している教員が結構な数、存在したようです。
ネット社会が発達する以前は、説明の技術がそれほど指導者間で共有できておらず、ある種の職人的な技となっていたこともあるでしょう。
そのため、自分が解けたとしても説明を上手くできない教員がそうした発言で生徒に反感を抱かせ、「暗記」という言葉に対しての悪印象を高めた側面があるように思います。
今も少数存在するようですが、高校では絶滅危惧種になりつつあります。
いたとしても、調べればきちんとした説明が書いてある本やサイトが山ほどあるため、存在したとしてもその言葉の影響力は極端に低下しているでしょう。
「暗記数学」の定義がはっきりしていない
この問題に関してはそもそも、「暗記数学」という言葉の定義がはっきりしていないのも一つの原因であると考えられます。
これには「暗記」という言葉があまりにも強い意味を持っているからと考えられます。
おそらく、「暗記数学」に否定的な人(=「理解数学」派)の多くは、「暗記」を「一言一句、意味も分からずに覚える」という意味で定義しています。
例えばこうした人たちは
$$
\sin (\pi -\theta )=\sin \theta
$$
といった公式もすべて覚えることを「暗記数学」と認識し、けしからんと言っているようです。
それについては、私のような「暗記数学」派も同意見です。
基本的な公式、特に直感的に証明や確認が可能なものを覚えることはあまりにも無意味ですし、応用力を奪うだけです。
私を含む「暗記数学」派の一部は、毎回一から考え直すのをショートカットするために自動化を「暗記」として定義をしています。
(多くの分派が存在するため、一概には言えませんが)
従って上の公式は単位円で理屈をつけて考えています。ただ、例えば単位円を作る、$${ \theta}$$を120°と60°のようなものと置き換える、などの具体例を覚えるように苦手な生徒へアドバイスをすることはあります。
「理解数学」派は受験数学エリートや数学徒などの数学強者が多い
「暗記数学」を嫌う人の特徴であり、それが彼らに「暗記数学」を嫌悪させる原因になっている可能性があります。
彼らは非常に優秀です。
先天的になのか、後天的に得たものなのかは不明ですが数学に対して高い適性があるのは間違いありません。
そうした人は実際には、解法手順を論理的に考察した上で、それを再現することを「理解」して解いていると表現します。
実際にはこの手順の中にも「暗記」要素は含まれています。しかし、それは全体の一部であり、数学強者たる彼らはそれを「暗記」と認識してさえいないためにその言葉を用いていないのです。
「暗記数学」派も「理解」をベースにしている
逆に、「暗記数学」派(正確には私の属する分派ですが)は解法手順を読み解いたうえで、解答再現をする操作を「暗記」すると言っているように思います。
解法の理由や方針については当然考えており、「理解」せずに使っているわけではないのです。
実際の解答再現時には、学習した典型例の流れをたどる形で記述するため、その典型例を「暗記」する、と認識しているに過ぎないのです。
「暗記数学」派も「理解数学」派も同じ山を登っている
ヒマラヤ山脈にある世界最高峰の山をエベレストと呼ぶことは有名です。
この山を北側のチベット側からは「チョモランマ」と呼びます。
しかし、南側のネパール側からでは「サガルマータ」と言います。
「暗記数学」と「理解数学」という言葉も、異なる呼称で同じ山を表現しているのが実態なのかもしれません。
「暗記数学」という言葉を世に広めたのは、受験アドバイザー、評論家、などを兼業する医師の和田秀樹氏です。
彼の著作、『受験は要領』で「暗記数学」という言葉が世に広まったと記憶しています。
「理解」という言葉に抵抗感を感じていた数学弱者に対して、「暗記」という言葉で抵抗感を緩和し、数学の苦手な高校生に希望を与えました。
私自身が「暗記数学」という言い方をあえて使っているのは、その功績に敬意を表する意味もあるのかもしれません。