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【題未定】箱庭の民主主義から生徒は何を学ぶのか:パフォーマンスとポピュリズムの教育的意義【エッセイ】

 秋は選挙の時期である。と言っても衆院選でも米大統領選でもなくもっともミニマムな世界での話をしたい。端的に言えば生徒会の選挙の話をしようと思う。

 生徒会の選挙は教員の意向に左右されるというのは公然の事実だ。これはよほどリベラルな気風の強い学校でもない限りは避けられない現象である。生徒会の活動が調査書や推薦書に影響するため、就職や進学を控えた高校において教員の影響力を排除するのは不可能だろう。

 したがって人気取りやパフォーマンスの類は意図的に制限を受けることになる。これは生徒が未熟であること、ポピュリズムに流されやすいことを前提とすればある程度は致し方ない部分もある。

 とはいえ、では成熟した大人が構成するはずの現実の社会においては人気取りやパフォーマンスは意味をなしていないかと言えばそうも言えない。現実の政治活動や選挙においてはそうしたパフォーマンスがその都度行われているのは周知の事実だ。

 例えば、無責任な消費税の撤廃論や非現実的な護憲論、非武装論、非科学的なワクチン否定派の行うお祭り騒ぎは誰しもが見たことがあるだろう。無意味な牛歩戦術、街宣者で聴衆を煽ってのコール、「Me too」のブームに乗っかったバカ騒ぎなどは特に有名だ。それに加えて最近はSNSにそうしたお祭り騒ぎをアップして、さらに拡散を図る様子が顕著である。

 いや、こうした騒ぎは成人しているが未熟な若者が流されているのだ、という現実を見ない否定もあるが、それは明らかに的外れだ。若者が中心となって支援している政党も存在するが、基地座り込みなどのパフォーマンスの平均年齢はどう見ても若いと分類するには難しいはずだ。街中で護憲の署名をしているは現役世代とは決して言えない年齢だろう。

 結局のところ、実際の大人たちの社会や政治においてもそうした人気取りやパフォーマンスが一定以上の効果を発揮しているというのが現実なのだ。そうした現実を見た時に、学校が生徒を過剰に保護し、箱庭の中で育てることが果たして最適解と言えるのかどうか、その判断は難しいだろう。むしろ耐性をつける訓練の場にすべきという考えも安易に否定はできまい。

 個人的な意見としては、そうしたパフォーマンスを否定するための良識を身につけさせる教育をいかに事前に行うか、選挙民として責任をどのように果たすかという指導をどれだけ行うかこそが、生徒会などの選挙に求められている「民主主義の練習」なのではないだろうか、と考えている。決して籠の中の鳥を育てたとて、彼らが民主主義を担う人材になることはないだろう。

 こうした意見に対し、いや事前にいくら教育してもパフォーマンスに流れる、という反論が返ってくる。そう、それならばもはや選挙など止めてしまえばよいのだ。明らかなポピュリズムに嵌る人々にとって民主主義は身の丈に合わない道具でしかないのだ。

 民主主義は他の政治制度と比較して、民衆が責任を取るというその一点において価値のある制度であって、絶対的に優れている万能の道具というわけでは決してない。愚かな選択のために選挙を無くすことになった、という結果を突き付けるのも教育ではないだろうか。

 そうした失敗を経験する、それも世代を超えてその負債を押し付けることになることもまた教育として価値があるのではないだろうか。まあ、現実的には難しいのだろうけれども、そうした教育方針を実験的に行うことも必要なのかもしれないと愚考するのだ。


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