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【題未定】選挙後に浮き彫りになる言論の醜態――左派の民主主義観を問う【エッセイ】

 ここ数日、とにかくSNS、特にX界隈の騒がしさが目立っている。というのも兵庫県知事選が斎藤知事の再選で幕を閉じたからだ。

 言うまでもないことだが、SNSは個人の趣味趣向を読み取って表示する傾向がある。私のSNSには政治系の言論が多く登場するが、それは自身がそうした傾向の発言者を見ているせいだろう。とはいえそれにしても終わった選挙、しかも人口7位の一県知事のものであることを考えれば異常な事態だろう。トランプの再選という世界を揺るがすレベルの出来事とはわけが違うのだ。

 具体的にどう騒がしいのかと言えば、要は斎藤知事は職員を自殺に追い込んだ悪人であり、それを選んだ兵庫県民は愚かで見識が無いという恨み言を延々と語るというポストを左派界隈の言論者が繰り返しつぶやいているというものだ。

 まず事実確認からしておくと、斎藤知事がパワハラで県職員を自殺に追い込んだかどうかは百条委員会で結論は出ていないし、明確に事実確認が為されたわけではない。

 もちろん氏がそうした行為に及んだ可能性は存在するが、我が国は法治国家であり推定無罪を原則としている。当然、現段階において当該事案をもって知事を批判するのは、良識のある人間ならば難しいだろう。

 ところが左派言論人は強い口調で以下のように主張する。「社会の底が抜けた」、「民主主義の危機」と。この手の発言を度々繰り返すことで有名な元文科省次官の前川喜平氏は、今回も以下のように呟いている。

「斉藤素彦を当選させた選挙ビジネスは、民主主義を破壊する悪性ウイルスだ。その正体を暴いて退治しなければならない。」

 正直なところ、この発言には嫌悪感を抱かざるを得ない。ここには民衆を蔑み、啓蒙しなければならない対象である愚民という認識しか存在しない。愚民が悪辣な資本家に搾取されていると信じ切ったソ連建国時のコミュニストと同じ匂いを感じるのだ。

 いわゆる左派言論人に多いのだが、自分たちの主張のみが絶対正義であるという極端な独善性に陥りやすい傾向があるようだ。これは古くは安保闘争、よど号やあさま山荘の事件から変わらぬ伝統だろう。

 たしかに斎藤氏が清廉潔白な君子かと言えば、そうではないだろう。(ゼロではないにしても万に一つのレベルだろう。)しかし、少なくとも今回において、現時点では明確な証拠や証言、録音は存在しない、表に出ていない。そしてそれ無しにパワハラを認定し罷免するというのは明らかに権力の暴走に外ならないだろう。もちろん氏が悪質な行為をしていたことが後々発覚すれば別だが、そうだとしても現時点で氏を罰したり中傷することは明確な誤りである。

 私は斎藤氏を支持する立場に立っているわけではない。他県のことであるし、斎藤氏に関わる事情を全て把握しているわけでもない。また、応援団と化していたNHK党の立花氏の言動も他人ごととしては面白可笑しく見る部分もあるが、一方で不謹慎で下品な言動であることも事実だと認識している。したがって決して一方的なスタンスで論じているわけではない。

 しかし、そのスタンスである私にとっても、選挙後の左派言論人のふるまいは余りにも醜悪で直視できない。彼らがこうした態度、発言を行うことは彼ら自身の首を絞めるだけでなく、建設的な議論を否定する土壌を生みかねない。彼らに猛省を求めるとともに、教育に携わる身としては、次世代がそうした餓鬼道に堕することの無いような教育が求められると感じる。

 具体的には自身の主張の反対者を対等に扱う姿勢や、敗北に関して不正や規則の否定を原因と主張し反省をしない態度、これらをいかに醜悪で恥ずべき行為であるかという認識を持たせる教育の必要性を強く感じるのだ。

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