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【題未定】大衆教育に「好きなことを極める」は適しているのか?【エッセイ】

 「好きなことを極める」という表現は従来の一斉型教育を否定するときに頻繁に聞くフレーズだ。これまでの学校はお仕着せの教科や学習内容を一律に全員に強制しており、それが日本人が大成しない、日本から新しい産業が生まれない理由なのだという。

 この言葉への反論は難しい。現時点において日本がイノベーションにおいて他国と比較して停滞していることは否定できない。また事実としてイーロン・マスクやスティーブ・ジョブズのような起業家や傑出した才能を国内の存命中の人物の中に見出すことは難しいようだ。孫正義や柳井正は傑出した経営者だが、前出の二人のようなイノベーターという要素には乏しいだろう。

 したがって従来の公教育がそうしたイノベーターを育成する機能を有しておらず、それこそが日本の停滞の原因であるというロジックは説得力のある言であるように聞こえる。そしてそれを否定し、乗り越える概念として
「好きなことを極める」ような教育制度に変革すべきだ、という主張も同様の説得力を持つだろう。

 しかし考えなければならないのは、そうした世界的イノベーターは果たして学校教育が作り上げた人工物であるのだろうかということだ。例えばジョブズの場合、彼自身が学校生活に適応していたかというと、どうにも疑わしいエピソードばかりが目についてしまう。学生時代には覚せい剤に溺れ宗教に傾倒するなど、どう考えても学校不適合である。イーロン・マスクにしても壮絶ないじめにあったり、製材所で働くなど学校教育が彼らを作り上げたとはかけ離れた人生を送っている。

 そうしたエピソードは強烈な創業者やイノベーターは学校教育で生まれないことを示唆している。歴史を振り返ってもエジソンはホームスクールの生徒であったし、アインシュタインも学校不適合だったのだ。

 つまるところ、そうしたイノベーターを人工的に作り上げることは不可能であり、それを意図した教育をカリキュラムとして構成したところで、大半の人間において「好きなことを極める」ことができないのが現実なのだ。

 これは少し考えればわかる話である。例えばサッカーなどのスポーツやピアノなどの音楽を趣味にする人は少なくない。しかしその大半はそれを極めることなどしていないし、自身の中で極めるほどの努力をするわけでもない。趣味は余暇や余力を用いて娯楽として活用することでしかないのだ。

 したがって現実問題として、「好きなことを極める」教育はマスに対する教育制度としては不適切な目標であり、実現不可能な命題なのだ。ところが昨今は子供個人の能力と可能性を過剰に評価し、期待する向きがある。これが親が個人的にそうした教育を行うだけならば「親ばか」で笑って済まされるが、政府や自治体が真面目な顔で政策に取り入れるようでは始末が悪い。本気で成功を考えているならば政治家や官僚の質の低下は疑い無いし、お為ごかしならば愚民化政策はここに極まれりである。

 言うまでもないことだが、「好きなことを極められる」人材に一律の制度の枠に押し込めることを強制するべきではないし、その効果が低いことは自明である。ただ、世の中の大半の人間は「好きなことを極める」ほどの天賦の才も、自発性も、継続性も持ち合わせてはいないのである。そんな大衆に「好きなことを極める」教育がどれほどの効果を持ち得るか疑問である、というだけなのだ。

 残念ながら市井の一市民、一教員として社会の潮流に逆らうことはなかなかに難しい。教育課程や学習指導要領は明らかに「好きなことを極める」方向に向いているし、それを歓迎する社会の空気感も確かに存在する。

 だからこそ現場の教員が教育方法の向き不向きを選別し、従来型の教育と「好きなことを極める」教育の仕分けをしていく必要があるのではないだろうか。それこそがAIではできない、生の人間の教員の仕事ではないかと思うのだ。

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