【題未定】大人の歴史遊び:40代からの過去への旅【エッセイ】
歴史に興味がある人は決して少なくない。地上波の番組でも定期的に歴史については取り扱う番組が放送されている。大河ドラマなどは歴史物そのものといっていいだろう。CSには歴史番組を専門に扱うチャンネルも存在するくらいだ。
書店を訪れてもその傾向は見てとれる。平積みされた本の一角には必ず歴史系のコーナーが設置してある。ライトな雑誌から文庫、そしてマニアックな専門書まで様々な種類の歴史本が並んでいる。
そうした書店の歴史コーナーで本を眺めていると気づくことがある。それは歴史物を熱心に物色する人の大半が中年以上、老年期の男性が多いといううことだ。
私自身に焦点を当ててもその傾向はある。以前から歴史には興味があった。高校時代の社会の選択では日本史と世界史の両方を受講していたし、大学でも教養の講義で歴史系の単位を取得した。もっと小さいころはマンガ日本の歴史などの本を愛読してもいた。とはいえ大学卒業後、就職してからは少しその情熱を失っていたように感じる。20代から30代前半にかけては歴史に関して何らかの学びに繋がる行動をした記憶はない。ところが、ここ数年かつての歴史熱が再び甦りつつある。
私自身も含めて、なぜ人は年を取ると歴史に興味を持つようになるのだろうか。この辺りを自身の内面を覗きこみつつ、客観的に分析してみたいと思う。
まず第一に考えられる要因としては年を取ることで人生の先が見える、ということだ。40代にもなると自分の人生が折り返しに入っていることに気づくことになる。出世競争の結果も大体の想像がつくようになり、自身が社会の主役ではないことに誰しもが感じ始めるだろう。子供が生まれていればなおさらだ。もはや自分の人生ですら自分が主役ではないことを感じるようになるのだ。
つまり自分史という歴史を客観的に評価する歴史家の立場を誰しもが手に入れることになる。これは長い歴史の中で自身を再定義しようとする強い動機に繋がり、歴史への興味を喚起する効果があるのではないだろうか。
次に考えられるのは、頼るべき相談相手を失い判断基準が存在しなくなる、ということだ。社会でそれなりの立場に立つと、大きな判断を迫られるポジションにつくことになる。若い時分は上司や先輩に相談できたが、年を取ると利害関係やコンプライアンスの観点からおいそれと他人に相談できない状況に身を置くことになる。
また信頼していた上司や先輩が一線を退いたり、鬼籍に入るということも増えてくる。そうしたときに頼れるのは、歴史上の人物の判断基準や行動だ。それらを学び、自身の基準と成すことで困難を解決する手がかりにするということだ。そのように過去の偉人がいかに考え判断したかを自分にスケールダウンするためには歴史を学ばざるを得ない。むしろそうした立場が歴史への興味を増幅させることにもなるのではないだろうか。
以上で挙げた複数の要因が日本社会に数多存在する歴史大好きおじさんを生んだ理由とまでなっているかどうかは不明だ。しかし歴史好きおじさんの数を考えればそうした理由を抱える人もいるだろう。作家の井沢元彦氏や実業家の出口治明氏などは歴史好きの高齢男性の代表例だろう。彼らは双方ともに大学時代は法学部に在籍しており、根っからの歴史学徒というわけではない。もちろん玄人はだしの彼らを一般の歴史好きおじさんと同一視することは難しいが、高齢男性の歴史好き傾向は明らかな事実だ。
私の最近の歴史に対する興味も先述のものに起因する可能性は高い。40代になり、人生の先が見え始めた。一方でその限界、無限の可能性など無い現実と向き合うことで過去への憧憬が強まったのかもしれない。
とはいえそのことは決してマイナスな意味で捉えてはいないし、むしろ趣味の幅がさらに広がったことを意味する。文化史学者のホイジンガの言葉を借りるならば、人間とは「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」であるという。街歩きと写真、そこに郷土史や古代史を結び付けた歴史遊びを満喫したいと思うのだ。