【題未定】マナーを巡る違和感 〜寺での拍手とその境界〜【エッセイ】
最近朝から散歩を習慣としており、その途中に家の近所の寺や神社参りをすることが多々ある。そうした場所では高齢の人が参拝をしている姿を見かけるが、先日見た光景にもやもやしたものを感じた。その老人は寺の前で拍手を打ってお参りしていたからだ。
最近はマナーがSNS上で度々話題になり、マナー講師と呼ばれる人たちが数多くの発言を行っている。そして、昨今は彼らの評判がすこぶる悪い。慣習的な仕草や正規の行動様式に関して教える分には問題がないが、彼らの多くが自身の仕事や主義主張のためにありもしないマナーを捏造し、それを他者に強制するきらいがあるからだ。
そんな捏造マナーの代表例は「江戸しぐさ」である。これは芝三光によって創作・提唱したもので代表的なものとしては「傘かしげ」=「雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと」のようなものがある。この江戸しぐさに関しては法政大学総長の田中優子や作家の原田実も根拠のない創作であると批判している。それ以外にも「了解しました」や「ノックは三回」など、存在しないマナーを作り出してしまう人たちは一定数存在する。
こうした新たなマナーを作る行為はそれが時代の要請による必然であれば仕方がない部分も大きい。しかし自己満足や自身の仕事の創出を目的とする不必要なマナーの濫立は社会を混乱に招くだけでなく、生きづらさを助長するものになりかねないだろう。
それゆえに正規のマナーと新規のローカルルールの線引きは難しい。自分が知っているマナーが一般的に知られているものかどうかの判別は困難で、それを偉そうに他者に対して指摘する人の醜悪さは見るに堪えない。稟議書などの印鑑は上長に配慮して傾け下にずらして押すなどを居丈高に語る先輩には敬意の欠片も感じないだろう。
先述の寺で拍手を打つ行為は果たしてどうだろうか。私の感覚では拍手を打ってお参りするのは神社であり、寺では合掌をするのがマナーであると思っていた。ところが、毎日寺の前を歩いていると、想像以上に寺で拍手を打つ人は多いようだ。だからといってその人に指摘をするのも野暮で、失礼な話である。必然、横目で見ながら違和感を抱えるということになる。
この寺社のマナーはどこまで徹底をすべきか難しいところだ。見ていると若い参拝者は興味があるからか、ネットで調べたからか守れているが、むしろ高齢者の方が守れていない、しかもかなりの割合の高齢者が混同をしているのではないだろうか。
マナーを守る、徹底することは決して悪いことではない。しかしそれを不必要に強制することは相手に不快にすることになる。私は寺で拍手を打つ人に違和感を抱くが、不快感を感じるわけではない。したがって指摘をする立場でもなければ、啓蒙するつもりもないのだ。一方でそれを指摘されたり、強制されたりした人はどうだろうか。おそらくは不快と感じるのではないだろうか。あえて火中の栗を拾う必要はないだろう。
私自身はその区別、拍手と合掌の区別だけはしたいと毎朝の光景を見て決意するだけだ。他人のマナーに対する違和感と、他者に配慮する気持ちの境目をどこに引くべきか、この辺りに解決の糸口があるのではないかと考えるのだ。