「上半身裸」の運動会の無神経さに見る学校組織の人権意識の低さ
11月になり、運動会、体育祭を終えた学校がほとんどだと思います。
運動会に残る伝統の一つに組体操があります。
近年は危険性が指摘されており、ここ数年はコロナの影響で実施する学校も減少傾向にあるようです。
こうした組体操とセットで行われるのが男子の上半身裸による集団演技です。
組体操だけでなく、騎馬戦やマスゲームなどを上半身裸で行う学校はいまだに多くあるようです。
なぜ「上半身裸」になるのか
そもそも、何らかの競技を行うときにどうして裸になる必要があるのでしょうか。
諸説あるようですが、健康増進や心身を鍛えるという名目で戦前や戦中の軍事教練的な意味合いで行われ始めたケースは多いようです。
(女子にも行っていた写真がネット上にはありました)
現代において、上半身が裸になった状態で日常生活を行う習慣は一切ありません。
当然、運動会においても裸である必要はなく、単に伝統的に続いてきたものを無自覚に、無批判に継続しているにすぎません。
騎馬戦などの競技においては、服を着ていると引っ張られて危ない、という理由を挙げていることがあるようです。
しかし、それとてそもそも服を着ていたら危ないような競技自体の継続を考え直すべきであり、指導するべきは競技内容であって服を脱がすことではありません。
LGBTだけではない、多くの人への配慮
上半身裸で人前に出るという行為は、人によって大きな抵抗感があるものです。
LGBTの方などはもちろんですが、そうではない人でも抵抗のある人は多いはずです。
皮膚のけがややけど、それ以外にも肉体的コンプレックスを抱えている人などはこうした上半身裸になる行為に対して極めて強い抵抗を感じているでしょう。
(そして観覧している人たちの中にも、そうした姿を見ることに抵抗がある人がいる、ということです)
私自身、高校時代に上半身裸で何らかの競技をさせられたことは記憶していますが、とても抵抗があり、不快なものでした、
当時、20年ほど前はそういった不満を訴えても一蹴されていました。しかし、現代は違うはずです。こういったことに問題意識を共有している時代です。
にもかかわらず、上半身裸の運動を続けるということに対し、学校という組織や制度の在り方や限界、矛盾を感じずにはいられません。
男女平等の前に人権感覚
学校という組織は人権感覚に関して鈍い側面があります。
ブラック校則という言葉もあるように、生徒の権利を制限するのに必死ですし、法律的な意識が低い教員も多いようです。
学校が荒れていた時代に、そうした行為が必要だったことを否定はしません。
しかし、時代は変わっています。
日本の学校の当たり前は、権利や多様性を重視する世界から取り残された存在になりつつあるのです。
まずは身近でありながら、これまでにないがしろにしてきた人権感覚に疑いを抱き、改善していく必要があるのではないでしょうか。
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