板書コピペノートを高評価する謎文化
授業中の板書を写したノート提出を生徒に課している教科や授業が存在します。
私にはその行為に意味があるかどうか…疑問です。
少なくとも、数学科の教員としては数学の授業において、板書ノートを提出させることには学習効果が得られることはほとんど無い、と言って差し支えないと思います。
何のためにノートを取るのか
学習者は何のためにノートを取るのでしょうか。
私はノートの役目を授業中の記憶の補助や頭の整理であると考えています。
ノートは聞き流すだけでは忘れてしまうようなもの、複雑で瞬間的に覚えるのが困難なもの、頭の中だけで考えるには分量的にも概念的にも難しいもの、これらの記録を残したり、見通しを立てたりするために使う、という考え方です。
ノートを取ることそのものが目的とはしていません。それならば写真を撮るなり、PDFを共有するなりすればよいだけのことです。
ですから、自分が見返して「ある程度」分かることが重要です。
ここで大事なのは「ある程度」である、という点です。
きれいなノートは価値がない
ノートを見返す目的は、私たちの理解が不十分であったり記憶を確認したりすることです。
そこに書かれていることの多くはノートを取った時点でも理解が難しかったり、一度に覚えられなかったりしたもののはずです。
それゆえ、それらの迷いや理解に困難を要した様子までが残ったものであるほど、かつて学習した時点の記憶を蘇らせるトリガーとなり、より理想的なノートと言えます。
逆に言えば、きれいに整理されたノートは無価値です。
授業を聞いて理解できて、理路整然とノートに書けるのであればノートを取る意味は無いですし、理解できていないのに板書をコピペしただけのノートは出来の悪い参考書の更に劣化版でしかないでしょう。
何を評価したいのか
ノートを回収して評価の足しにするとき、上述のきれいなノートは評価が高いのだと思います。
そして、授業中の理解不足の点などを書きなぐった、自分しか活用できないノートは良い評価にはならないのでしょう。
しかし、果たしてどちらが優れたノートなのでしょうか。
頭を使わず、その場にいたことをただ証明するためだけのノートと、自分との葛藤の足跡を残したノート。
私にはノート提出をさせて何を評価したいのかさっぱり理解ができません。
まあ文科省ですら、「正しいノートの取り方」で「関心・意欲・態度」を評価するのは望ましくないと書いています。
ノートはログに過ぎない
結局の所、ノートはプライベートな学習ログに過ぎないと私は考えています。
ログによって評価を行うことは、評価のためにログを改竄することを助長し、実態を示すログの保管を難しくしてしまうのではないかと危惧します。
試行錯誤し、葛藤した跡が残ったノートを見れば、生徒の学習状況や、つまずきが一目瞭然であり、それこそが財産になると思います。
提出による評価は、学習効果を高めるためのノートを取る行為が自己目的化してしまうだけだと思うんですが…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?