「選挙というシステム」の制度疲労
本日、2022年7月10日は参議院議員選挙の投開票日です。
若者の政治離れや低い投票率といった選挙の問題は十年以上にわたって議論され、あの手この手で投票率を上げる施策が行われていますが一向にのその成果は上がっていないように見えます。
それでも選挙へ行かない若者
本年度から選挙権を持つ高校生がクラスの中に存在するようになりました。学校には選挙への積極的な参加を促すチラシや資料が送ってきます。
教員側としても、大人として選挙に行き、自分で考えて選んだ候補に投票するような声掛けをしています。
しかし、依然として現代の若者の多くは選挙に興味がありません。
かつてと異なるのは、選挙制度や重要性に関してはかなりしっかりと教育を受けているという点です。
しかし、彼らは選挙の仕組みや重要性は理解した上で、それでも選挙に行かないということなのです。
無力感だけではない
選挙に行かない若者に対し、メディアがインタビューしていることがあります。そうしたときの回答の多くは
「どうせ自分が入れても変わらないから」
といった世代間の人数差による無力感などがセットで解説されます。
もちろん、それは原因の一つではあるのでしょう。
しかし、教育現場で若者と向き合っているとそれとは異なる見え方があることに気づきます。
普段の生活への高い充足感
今の若者は普段の生活に極端に大きな不足や不満を抱えていません。
もちろん裕福な家庭だけでなく、貧しい家庭も存在しています。
しかし、貧しいとされる家庭であっても、毎日の米に困ることはありません。寒さに凍えることはなく暖かい部屋で生活できます。
暑い日はエアコンの聞いた場所で過ごす(学校もその一つです)ことが可能です。
スマホを買い与えられ、娯楽とコミュニケーションには事欠きません。
彼らの生活の中に「困り感」は少しもないのです。
政治や社会に意見する必要性がない
そのために、政治や社会に対し意見する必要がありません。
自分自身がエネルギーや時間を使ってまで、何らかの行動で社会全体の変革を促したいという意欲などあるはずがないのです。
彼らにとって最低限が保証され安定した生活や維持された治安、いくらでも暇つぶしのできるコンテンツは初めからそこに存在しています。
民意をまとめ、権利を勝ち取るという意識は存在すらしていないでしょう。(このあたりの空気感は、学校行事の盛り上がり方ともリンクしているように感じます)
若者を啓発することは不可能
こうした社会背景の変化において、若者へ政治にたいする啓発活動はほとんど意味を持ちません。
もちろん、若者の中にはそうした活動で政治に興味を持つ人もいるでしょう。あるいは貧困や個人的な問題で政治に深く関わるケースもあるでしょう。
しかし、ほとんどの若者にとっては自分の幸福とは関係のない茶番劇でしかないのです。
事実、先進国の多くが投票率の低下という問題を抱えており、政情不安や貧困が問題視される国ほど投票率は高い傾向にあります。
日本の先人たちが努力して手に入れた豊かさが政治離れを生む原因かもしれないというのは何とも皮肉な話です。
「選挙というシステム」の制度疲労
民主主義や選挙というシステムが、社会への不満や改善要求を前提としたシステムであるように私は感じています。
不平や不満が低下した社会においては「選挙というシステム」が制度疲労を起こし、社会の実体に合わなくなっているのかもしれない、と選挙の度に、生徒に投票を呼び掛けるたびに思っています。