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手紙の習慣で得られる7つの能力

私は手紙を頻繁に書く。美味しいものを食べた時、特別な場所に出かけた時、もしくは日常で起こった出来事をシェアしたい時、リアルタイムでTwitterやInstagramに投稿するのではなく、届けたい人に向け手紙を書いて送る。

スマホやソフトウェアが普及・充実した今でこそタイムリーな情報共有が可能になったが、15年ほど前は全く違った生活様式だった。誕生日には誕生日カード、クリスマスにはクリスマスカード、年末年始には年賀状が主流であった。

本題だが、今回の記事では通信技術の発展を嘆いたりはしない。先人たちの積み重ねが現代であり、いまこの瞬間が未来の土台となっている。嘆く・嘆かないどうこうの問題ではないからだ。

ただ、今一度「手書き(日記も含む)」の魅力を強調したいと思う。

1、手紙を書く人はレア

私が知人や友人に手紙を渡すと驚かれることが多い。その背景には「コミュニケーションツールとして手紙を使う人がいる」という驚きポイントがあるようだ。実際、感覚値ではあるが「手紙をもらうなんていつぶりだろう!」という声が一番多い。この言葉を裏返せば、日常で手紙を渡す人は少ない=希少性があるということになる。希少性は驚きに繋がるのだ。

また、手紙はSNSのDMよりも受け手側のインパクトが大きい。何故なら、手紙は「手間」だからだ。便箋や封筒を揃え、時間と労力をかけメッセージを綴る。封をして、ポストもしくは郵便局まで運ぶ必要がある。つまり、「時間」「お金」「労力」というコストがかかる行為なのだ。便利=正義の現代においては邪道である(この点が、希少性にも繋がってくる部分であるが)。

しかし何事も捉え方次第だ。手紙とは「私は時間と労力とお金をかけてまで、貴方に伝えたいことがあるんです」という歩み寄りの証なのだ。多くの人の習慣であった「手書き手紙」が「SNSでのチャット」に切り替わったことで、手紙の持つ価値が跳ね上がっている。

2、手紙で鍛えられる7つのチカラ

実は、手書きで一番効果が大きいと思うのは、上記した「他者評価」よりも「自己成長」である。実は、手で文章を綴るという行為は結構大変なトレーニングだ。「知的筋トレ」と言えるかもしれない。故に、やればやるほど筋力が付いてくる。

具体的にどういう知的筋肉を鍛えられるのか列挙し、順を追って解説してみよう。

①言語化力
②内省力
③思考力
④自己理解
⑤自己受容
⑥多様性
⑦感性

書くには言語化が必要である。伝えたい気持ちや情景を言葉に落とし込む過程だ。この過程がなければ、いくら紙に感情を詰め込んだところで落書きに終わってしまう。

言語化するには内省力が必要だ。自分がどういう気持ちなのか、ひたすら自問自答することだ。この過程を抜きに言語化しても「何かうまく言い表せていない」状態に陥る。

③正確な内省には思考力が必要といえよう。なぜなら、自問自答では「正しい問い」を立てることがポイントだからだ。間違った問いを立てても、的外れな答えが出てくるだけである。

思考力を身につけるには自己理解を深めることだ。自身の思考の傾向を把握しておくことで、柔軟な思考が可能となる。個人個人持っている世界観は異なる。まずは自分の世界観を知ることだ。

自己理解にあたり、まずは自己受容の過程を踏む必要がある。「自分に興味を持つ」うえで、「自分の存在を認める」ことは基礎中の基礎である。自身を卑下・否認・否定している状態では自己理解は行えない。

自己受容しようと思えば、まずは他人を認めることだ。自分を受け入れらない状態=他人も受け入れられない状態である。自分を雑に扱う人は他人を雑に扱っているのと同義であり、逆に他人の扱いが雑な人は自分への扱いも雑である。

他者受容には、洗練された感性が必要となる。自身の価値観だけでなく、あらゆる価値観への興味関心が必要だ。街中のガードレールや建物の塗装、マグカップの造形の向こう側には常に他者の価値観が潜在していることに気づく感性だ。

以上、「手書き」行為で鍛えられる7つのチカラについて書いた。「必要だ」という表現を多用したため、もしかしたらハードルが高い行為のように捉えられるかもしれない。が、そんなことはない。この7つのチカラは続けていくうちに身についてくるものである。こうして偉そうに書いている私もまだまだ発展途中だ。

そのため、「もっと言語化力を身に付けたい」とか「何だか今の自分のままではいけない気がする」「人と関わるのは好きだが上手く表現できないことが多い」という方は是非、日記なり手紙なり、手で文字を書くということを始めてみて欲しい。

3、「手書き」の真髄は更に先にある

上のようなチカラはあくまで、副産物であると私は考えている。

というのも、手紙や日記の習慣で得られるものは目に見えたり耳で聞けたりするような、五感に収まるものではないからだ。

・人との繋がり
・丁寧な暮らし
・より豊かな人生

手紙を書くには、日常に目を向けていなければならない。生活の中で他人を想う心のゆとりがなければ手紙を書くことはできない。

食事や街の景観、日々の会話、自身の感情、些細な変化などに無関心では、言葉・文字で語ることができない。「すげえ!」「やべえ!」で大抵の会話を成り立たせることはできる。できるが、それでいいのかという問題提起だ。

買い物一つにしても「類似商品が多数ある中でなぜそれを選択したのか」と、自身の感情・思考・行動を振り返ることができるだろう。

色々書いたが、日頃からそうしたことに目を向けていれば、いざ死ぬ時に「もっと丁寧に生きればよかった」と後悔する可能性も低いと思うので、私はこうして生きるし、今後もこうして生きていくつもりだ。

4、自分軸を持つこと

もう少し語らせて欲しい。

こうした「死の瞬間」から逆算した生き方が重要であると、私は考えている。

人間として生まれてきたのだ。辛いことや苦しいことはあるが、それも人間であることの醍醐味だ。全て味わい尽くしてやりたいのだ。全力で悲しみ、苦しみ、怒り、喜び、楽しんでやりたい。ネガティブ感情まで全て引っ括めて「生きる歓び」だと思う。「生きている証」だと思う。

こういうことを言っていると、「考えすぎ」「頭でっかち」やら外野がやかましい。何と言われても「どうか好きに生きてくれ。私もそうするから」という感想しか浮かばないが、角が立つので声に出さない。

以前私は「自分軸がない」ことで悩んでいた。生き方が分からず、他人との繋がりも避けた。他者理解や自己表現から逃げ続けていた。「言葉」なんか存在しなければいいと考えていた。言葉をこの世からなくすことができないのなら、自分の喉を潰そうと考えた。しかし上手くいかなかったので、いっそ自分が存在しなければいいと思ったが、それも自分の中では昇華できなかった。コンセントを抜いてフリーズしたPCを強制終了するような終わらせ方は、まだ早いと判断した。

紙とペンが、私を変えてくれた。感じること思うこと考えたことを全て書き殴った。すると徐々に、楽に生きられるようになってきた。気づけば友人達と談笑する自分がいた。笑みの要素がなかったしかめっ面が、少しは穏やかな顔つきになった。大抵のことは笑い飛ばせるようになった。大きな変化だった。

一人で悩める人にとって、紙とペンは最高のパートナーだ。是非、手にとって、何でもいいから書いてみて欲しい。続かないかもしれない。捨ててしまうかもしれない、私も途中で何冊も捨てた。しかしそれ以上に、ずっと変わらない自分が嫌だった。

常に、「次の一歩」を踏み出し続けて欲しい。私もそうする。

メールで住所を教えてくれれば、便箋とペンを送ることだってできる。変わりたくて変われない自分で悩んでいるのなら、もしコンセントを抜こうとしているのなら、変わる機会を私に提供させて欲しい。

私に他人を変える力はないが、変わる機会を提供することはできる。

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