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【~連載~静岡の歴史を学ぼう208】 The surrender of the Edo Castle and Temma-cho district in Sumpu Part1江戸城無血開城と駿府の伝馬町 パート1

※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。


静岡市葵区伝馬町のペガサートビルのすぐ前に、西郷・山岡会見の碑があります。日本の近代史を変えた会談が伝馬町で行われました。

静岡市立青葉小学校の4年生だった○○年前、郷土史研究クラブの活動でこの石碑を見に来た思い出があります。昭和の時代にはもう少し東側にありましたが、伝馬町再開発のためこの地に移設されました。

西郷・山岡会見の地 記念碑
静岡市葵区伝馬町 ペガサートビル前にて




The surrender of the Edo Castle and Temma-cho district in Sumpu Part1

江戸城無血開城と駿府の伝馬町 パート1

In the Meiji period, Japan could develop its national power to catch up with Western countries.

明治時代、日本は西欧諸国に追いつくため、国力を増強しました。

One of the major reasons resulted in the surrender of Edo Castle, which avoided a bloody war that would divide Japan.

主な理由の一つは江戸城明け渡しにあります。日本を分断したであろう血を流す戦いを避けたからです。


高橋由一 – 旧江戸城之図(1872年・明治5年制作)

This historical event was held in March 1868(based on the lunisolar calendar)

この歴史的な出来事は1868年の3月に起こりました。(なおこの暦は太陰太陽暦によります。)

The shogun’s army deliberately opened the Edo Castle and accepted their defeat by the victorious imperial forces.

幕府軍は自ら江戸城を明け渡し、官軍による敗北を受け入れました。

It means the Edo feudal government accepted the end of their political power and the start of the Meiji new government by the Emperor.

それは江戸幕府が自身の政治的権力の終焉と天皇による明治新政府の始まりを認めたことを意味します。

In general, this measure, called the bloodless surrender of the Edo Castle, is considered to have been agreed upon by Saigo Takamori, the imperial force's leader, and Katsu Kaishu, the shogun’s army leader, in March 1868.

概して、江戸城無血開城と呼ばれるこの方策は官軍のリーダーである西郷隆盛と幕府軍のリーダーである勝海舟により1868年の3月に合意に至ったと考えられています。

江戸開城談判 結城素明筆

However, the more important preparatory talk was in Sumpu before Edo’s meeting.

しかし、より重要な予備会談が江戸より前、駿府で行われました。

The talk between Saigo Takamori and Yamaoka Tesshu was held in Temma-cho, Sumpu, on March 9, 1868.

西郷隆盛と山岡鉄舟による会談が駿府の伝馬町において、1868年3月9日に行われました。

西郷・山岡会談の地 記念碑よりレリーフ
西郷隆盛 と 山岡鉄舟

Yamaoka Tesshu, the deputy of Katsu, traveled from Edo to Sumpu in order to meet Saigo Takamori despite the risks at hand of being the target of the supporters of the Imperial force.

山岡鉄舟は勝海舟の代理として、官軍の支持者に標的にされている危険も顧みず、西郷隆盛に会うべく、江戸から駿府へとやってきました。


西郷・山岡会談の地 記念碑

(参考資料) 西郷・山岡会談の地 記念碑 

「江戸から続く宿場・興津宿の最後の一軒、その歴史とともに後世へ」 (Webコンテンツ)   東海道興津宿割烹旅館 岡屋


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