【~連載~静岡の歴史を学ぼう200】Former Yahata-koji-machi Part.1 旧八幡小路町
※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。
お読みくださっている皆さまのおかげでこの連載も200回を迎えることが出来ました。ありがとうございます。駿府の歴史を知ると、時間をさかのぼって静岡を旅することが出来ます。そして「静岡って面白いな~」と思えます。今年、NHK大河ドラマ「どうする家康」で注目を集めている静岡市。この連載で静岡の魅力をさらに見つけてください。
今日のテーマは無くなった駿府の町名の一つ、八幡小路町です。古い町名から駿府の歴史を紐解いて見ましょう。
Former Yahata-koji-machi Part.1
旧八幡小路町
The former Yahata-koji-machi was located in present-day Sakae-cho and Temma-cho districts.
旧八幡小路町は現在の栄町と伝馬町にありました。
Yahata-Koji,or Yahata Alley was a place where Kuno kaido started at that time ,which was a major route to connect the city of Sumpu and the Kunozan Toshogu Shrine.
八幡小路は、駿府のまちと久能山東照宮をつなぐ久能街道の起点であった場所でした。
Even up to now, Kuno kaido is still used as a major route in Shizuoka.
現在でも久能街道は静岡の主要な街道として使われています。
A memorial stone monument of Kuno kaido stands in Tenma-cho, along the former Tokaido Route.
久能街道の記念碑が旧東海道沿いの伝馬町に立っています。
It takes about nine kilometers from it to the foot of Mt.Kuno.
ここから久能山下まで約9キロメートルあります。
(The original unit in the Edo period was 2 ri and 11 cho. 1ri is equivalent to 3.927kilometers. 1cho is equivalent to 109meters.)
(江戸時代の元々の単位では二里十一町でした。一里は3.927キロメートル、一町は109メートルに相当します)
Daimyo, or feudal lords, coming from Western regions used to visit the Kunozan Toshogu Shrine because it was dedicated to Lord Tokugawa Ieyasu.
西国から来た大名たちは久能山東照宮を参拝しました。ここが徳川家康公をお祀りしていたためです。
The daimyo stopped by the important Shinto shrine when going to Edo for the alternate attendance system, or sankin-kotai,
大名は参勤交代で江戸に行く時、この重要な神社に立ち寄りました。
In addition, Kuno kaido was also important because essential life items such as salt produced in Kuno area and products like seafood were transported to the city of Sumpu along this road.
加えて、久能街道は、久能で作られた塩や海産物のような生活物資が駿府のまちに運ばれるため、とても重要でした。
It is said that the land name Yahata originated from the Yahata Village with the Hachiman Shrine located along the Kuno kaido.
地名の八幡は 久能街道沿いにある八幡(はちまん)神社がある八幡村(やはたむら)に由来すると言われています。
(参考文献)「徳川家康と駿府城下町」 黒澤 脩著 静岡谷島屋
「職と商でできた町 『駿府九十六カ町』」 静清信用金庫創立100周年記念事業