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【~連載~静岡の歴史を学ぼう303】「家康公はシティデザイナー」
※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。
「静岡移住計画」の記事を書き始めてもう300本以上。感謝です。
通訳ガイドでもあり、静岡の歴史を外国人の方々に説明できるといいな、と思い今まで英語と日本語で記事を書かせて頂きました。とは言え、元々が静岡の歴史オタク。今度は日本語での記事にお付き合い頂ければ幸いです。
「静岡って何にもないじゃん」って声を時々聞きます。
本当に何もないって思ってます?
このサイトは「静岡移住計画」ですが、静岡における最強の移住者とは誰でしょう。
それは徳川家康公に他なりません。家康公がわざわざ移住してきたんですよ。そのまちに何もないって考えられます?
徳川家康公が1607年に江戸から駿府城に移られる際に、お城だけでなくまちも一緒に開発しました。
「今川家の事、忘れるなよ」という強烈な今川ファンの皆様。
そうなんです。家康公は今川家の元で成長したから当時最先端の教育を身に着け、優れた統治者になられたのです。今川家の功績については改めて。まずは最強の移住者、徳川家康公と駿府について話をさせてください。
注:静岡市では徳川家ばかりに目を向けていると「ちょっと待って。今川家があってこその家康公でしょ」という空気をバシバシ感じます💦
「うむ、それならいいだろう」
・・・・・今川ファンの皆様、ありがとう。
徳川家康公は最強の都市計画者=シティデザイナーでもありました。
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駿府城公園内
都市、駿府は徳川家そして武家社会を支えるためにいかに機能するか。家康公は駿府の街を三つのエリアに分けました。
1.武家地 2.町人地 3.寺社地
基本、位の高い武士は駿府城の近くに住み、敷地も広い。
駿府城公園、内堀沿い坤櫓の近くに古地図がありますから見てみて下さい。藤堂高虎の屋敷は大きい。町奉行所より大きい。ちなみに写真の中にある①は王手門 ②は四足門です。
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駿府城坤櫓向かい側にあります。
その南側には町人地が広がります。
ただ、町屋とだけ書かれてあります。こちらこそ駿府を支えた町人が暮らしていたエリア。職業ごとに町人を住まわせ、駿府が効率的に機能するように小さい町内が配置されていました。その町名は「駿府九十六か町」と呼ばれ、現在でも多くの町名が使われています。皆さんも静岡市葵区中心部で町名碑をご覧になったことはありませんか。
そして寺社地。神社仏閣のエリア。江戸時代には町人地の南側に「寺町」という寺院が10以上も並び、西からの攻撃に備えてバリアとして置かれていました。
それぞれに意味があるエリアの配置。有機的に機能する都市。
家康公が移住されたのは1607年。当時最先端の都市機能を備えていたのが駿府だったのです。
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この向かい側に駿府古絵図があります
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静岡市葵区常磐町 常磐公園にて
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