M君のこと
スーパーに行ったら、山盛りの豆アジが1パック100円だった。
これは南蛮漬けでしょ!!
と思うのであるが、その調理過程を考えるとちょっとげんなりする。もう夕方なのに、これをさばくところから始めるのかと。
値段と味と、手間を天秤にかけて、結局食い気が勝った。よし買おう。今夜はアジの南蛮漬けだ。
それから間もなく、私は台所でこの決断を後悔していた。思ったより、アジが沢山入っていた。やってもやっても下処理が終わらない。シンクがアジだらけだ。
何気なく、居間にいる小学生の娘を呼んだ。今、ヒマ?
暇だという娘に、期待せずに「アジ、さばいてみない?」と言ってみると、なんと「やるやる~!」と言って台所に走ってきた。
簡単に説明しながら一匹アジをさばいて見せた。豆アジだから包丁はいらない。ほとんどエラと内臓をむしり取る感じだ。
娘は「分かった!」と言いながらアジと格闘し始める。あっという間に習得して、「面白くなってきた。後はやっとくからお母さんは他のことしてていいよ」とまで言う。
我が子ながら、すごい。私は、中学の家庭科の調理実習の日まで、生の魚に触ったことがなかったというのに。
その日の3、4時間目は通しで家庭科だった。調理実習で「魚のムニエル」を作る。
ワクワクしながら実習室に行くと、教卓の真ん中に、イワシが山盛りになったボウルが一つ、ドン、と置かれていた。みんながそれを見てザワついている。まさか、今日の「魚」というのはあのイワシの事なのか?!教科書の写真では鮭の切り身だったはず!
「くそう、予算ケチったな」
秀才のヒデチカが鋭い分析をした。
私はおののいていた。教科書では鮭の切り身を使っていた。生真面目にも予習していたので、調理過程が
①魚の切り身に塩、こしょうをふる
というところから始まっていることも知っている。
しかしどう考えても、教卓にある、あの頭のついたイワシにいきなり塩とコショウをかけて焼いても、ムニエルにはなりそうにない。
では、どうするのか…??さばくのか…?
家ではクッキーやケーキを焼いたことはあっても、料理をしたことはほとんどない。それがいきなり生魚…生魚を…。
「はい、じゃあ今日は、このイワシを手開きにして、ムニエルを作りたいと思います」
授業が始まると、こともなげに先生はこう言った。終わった、と思った。
では、手開きのやり方を説明しますから、みんな前に来てください。
先生はそう言って私たちを教卓の前に呼ぶと、手際よくイワシをさばきはじめる。
はい、まずはこうして、左手でイワシを持って、右手でエラを開いて中の赤いビラビラを、これがエラですが、むしります。
次に、もう一度エラの中に指を入れて、頭の側の背骨をポキンと折ってください。頭を取ります。
そしたら、そのまま頭を横にすーっと引っ張って…するとこうして一緒に内臓もついてきて取れますから、きれいに取ってしまってください。
お腹の中を、きれいに水で洗いましょう。
その後は、親指を背骨に沿って動かしていき…こうやって開いて行きますよ。
最後は、背骨を頭側から引っ張って取れば、手開きの完成です。
さあ各自、一匹ずつイワシを持って、調理を始めて下さい!
歓声が上がる。みんなイワシを掴んでそれぞれの席に散っていく。
私は遠まきに見ていたのだが、ついに私の順番になってしまった。意を決して、左手でむんずとイワシを掴む。
周りの女子は気持ち悪いだのなんだのとキャーキャー言っているようだが、私には声を出す余裕などない。つかんでしまった。イワシを…!!
さあ、つかんでしまったからには、早く工程を
①魚に塩コショウをする
という、教科書のラインに乗せなくてはならない。
山場はとにかく、内臓を出すところだ。そこさえ乗り越えたら、後は何とかなる。
まずはエラだ、エラを取らなくては。
息をつめて、右手親指と人差し指を両エラに差し入れた。
うわぁ、中のエラって、こんなざらざらしてるのか…!ひえ~、つかんだら痛いくらいだ。
とにかくこれをつまみ出せば…
メリッ…!
と、とれたぁ…。
そして次はまた、ここに指を突っ込んで、骨を折る…。
うう、頑張れ私、頑張るんだ…!
ポキッ…!
よ、よし、折れたぞ!そう、後はこれを横に引っ張れば、一緒に内臓が…
ついてこないんですけど~!!!!
私は呆然とした。そして戦慄した。
イワシは今や頭を失い、きれいな身の断面を私に見せている。その内臓は、相変わらずあるべきところに納まっていて、少しこちらに盛り上がりながら赤黒く光っていた。
ここに、指を突っ込まなくてはならないのだろうか…??
普通に考えて、内臓を取り出すのだから、包丁もないのだから、そうするしかないのだろう。
しかし…しかし…。分かるのだが、分かりたくない。
完全な、思考停止。私は途方に暮れ、左手は教卓でイワシを掴んだ時の状態のまま、教室の中で一人、うなだれていた。
「なんだお前、出来ないのか?!」
突然の声に顔を上げると、目の前にM君が立っていた。
そり込み、と言って、おでこの生え際がM字型に刈り込まれている。眉毛はやけに細くとがって、10時10分の角度に整えられていた。
私は言葉もなく、ただこっくりと頷く。すると彼は
「ちょっと貸してみ?!」
と言って、パッと手を広げて差し出した。
無言で手の上にイワシを乗せると、彼はそれを握ってサッとどこかへ去って行った。
空が、青かった。雲が、流れていた。
ああ、今日はいい天気だなあ。
助かった。ああ助かった。
内臓さえ取れたら、後は何とかなるだろう。親指を背骨に沿って動かして開いたら、背骨を取る。
よし、大丈夫だ、出来るはず。
私は教室の窓から空を眺めてホッとしながら、この後の工程を頭の中で確認していた。
とにかく、内臓さえ出してもらえたら、あとは自分で何とかできる。
それにしても、家でお菓子ばっかり作ってないで、やっぱりたまには、料理もやらなくてはだめなんだなあ。
「ほら、出来たぞ!」
目の前に差し出されたイワシは、きれいに仕上がっていた。洗って水分もふき取ってある、きれいな開きであった。
もう次は塩コショウだ。
心底驚いてイワシをまじまじと眺めた後、「ありがとう!」と言って顔を上げると、彼はもういなかった。
「ちょっと~、きれいに出来てるじゃな~い」
自分の事はほったらかしでクラス中のムニエルを見て回る、自称料理評論家のマユが、私のムニエルを見てこういった。
素直に「いや、M君にやってもらったから私じゃない」と言うと、横にいた、クラスの事情通を気取るアヤコが、あ~M君ね、と訳知り顔で言う。
「M君ち、お母さんいないから、毎日M君が晩御飯作って妹に食べさせてるんだよね。へええ、やっぱうまいもんだよね~」
私は驚いて教室を見回し、M君を探した。
彼はもう片付けまで終わったのか、教室の端で他の男子とじゃれている。
そのエプロンの柄のベティちゃんが、彼の胸の上で笑っていた。
「ねえお母さ~ん、ちょっとこれ出来な~い!内臓がとれないよ~」
娘が、ちょっと大きめの豆アジを手にそう言ってきた。エラと一緒に内臓がついてこなかったらしい。
「ああ、ちょっと貸して」
私はそう言うと、娘からアジを受け取り、腹びれの辺りを持つ。
そして何の躊躇もなく、一気に内臓を引きちぎって「はい、出来たよ」と言った。