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概念

概念でいたい、

と、ずっと、思っていた。

ことばを使って表現をするとき、肉体はどうしてこんなにも邪魔なんだろうと、思っていた。

わたしが男性でも女性でもどちらでもなくても、17歳でも25歳でも48歳でも81歳でも、その作品はその作品でしかないのに。作品はどうしても、わたしが持つ身体性と、結びつけられてしまう。

とはいえ、切り離そうにも、切り離せない。わたしのなかから生まれる表現は、一度、わたしの肉体を通っているのだから。わたしは、完全な概念にはなれない。わたしという生き物がいる以上、わたしの表現には身体性が伴う。

肉体があるからこんなにくるしいのに、わたしは肉体から、自由になれない。わたしのなかにあるものを見つけてもらうのに、どうしてこんなに、不自由なんだろう。たましいみたいなものは、どこにあるんだろう。死ねば、概念になれるだろうか。死体には、たましいだけがないんだろうか。あるのかもしれない。わからない。わたしはまだ、死んだことが、ない。


*


概念でいたかったのは、自分の存在によって、大切につくった作品それ自体の価値が損なわれるのが、かなしかったから。だからわたしは、「夕空しづく」という概念でいたかった。身体性は、要らなかった。ただ書いて書いて書いて、ただしく見つけられたかった。

こわかった。恋愛を描けば「実体験」と笑われるのが。殺人を扱えば「思想」を疑われるのが。あらぬ視線視線視線視線、向けられる感情がこわくて、一時期、外にでられなかった。このドラマはフィクションです、と叫んでも叫んでも、届かない。作品は作品としていのちがあるのに、わたしと、一緒に、しないでと。

でもそれは、エゴだとわかっていた。愚かな考えだと、わかっていた。だったら書かなければいいと、表現をやめればいいと。それは、もっと地獄だった。傷ついてもいいから、書いていたかった。


私家版で初めて紙の本をつくったとき、「届けたい」と、思った。見つけられたい、というより、このことばたちに、世界を見せてあげたいと、思った。書店さんに問い合わせ、お話をし、本を卸しにいく。それができるのは、「夕空しづく」という実体だけだった。

だからこそ、いろいろな場所と、ひとと、出会えた。世界がこわくて部屋に閉じこもりがちだったわたしは、いろいろなひとの本棚に、居場所をもらえた。「届けよう」としたら、受け取ってくれるひとが、いた。ちゃんと、いてくれた。

わたしが概念だったら、決して、出会うことはできなかった。ことばはわたしのなかで、いまも死を待つだけだった。


*


こんなに痛いのもくるしいのも、肉体があるからだ。
そして、ときおり幸福を感じられるのも、肉体があるからだ。

肉体がなければ、傷つくことすらできない。記憶することすら、思い出すことすら、できない。

わたしを通してしか表現できない、ことは、絶望ではない。
わたし、を通すから、生まれる表現がある。それは、自分語りとはちがう。感情の吐露、ともちがう。感情をただ抱きしめる、抱きしめて抱きしめて、そこから抽出したインクで、書くということ。わたしだけの感情を、わたしだけの方法で、世界に放つということ。

それをどう受け取ってもらえるかは、わたしには、どうにもできない。概念として見つけてくれるのか、ひとりのひととして見つけてくれるのか、誰かと重ねるように見つけてくれるのか。わからない。願うことしか、できない。


わたしはどれだけ逃げても、わたしから逃れられない。貧血気味のこの身体で、生きていくしかない。
刻一刻と、心臓は死へのカウントダウンを告げている。身体は緩慢的に、終わりへ向かっている。いつかは呼吸が止まり、骨になる。いずれ骨もかたちをなくし、この世界に溶けていく。

肉体がある時間なんて、きっと一瞬だ。

だから今は、できるだけ愛していきたいと、思う。概念でいたい、それは変わらない。作品と人生はちがう。でも、人生から作品は生まれる。わたしがわたしとして生きるから、表現が生まれる。そのことを、静かに受け入れる。大切に書いて、届ける。その繰り返しを、いのちある限り、続けたい。

世界とちゃんと、目が合う瞬間まで。ぜんぶの時間軸のわたしが、この世界にいてよかったと思える瞬間まで。


※『トワイエ』、オンラインショップでのお取り扱いがあとわずかとなりました。届いたら、うれしい。見つけてもらえたら、うれしいです。


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夕空しづく/詩人・小説家
眠れない夜のための詩を、そっとつくります。