この家どうするの?(50)葬儀屋さん今昔・30「ゴミぶくろ」
父の葬儀関係・支払まで終了しました。あとは2週間後の区役所での手続きだけ。とりあえず一軒家の片づけを。葬儀屋さんは出てきません。
つらくなるかたは、お読みにならないでください。
(1681文字)
ゴミ袋のストック
父は潔癖性。学童疎開で、ろくにお風呂にも入れず、頭にシラミが……。薬をかけられたという。不潔な環境だったのがトラウマになっていたようです。
ひまさえあれば、父は室内用ホウキで床を掃いていました。ゴミが落ちてるだけでも耐えられなくて、「汚い」「掃除しろ」!
……いつもわたしは怒られた。
そんなこんなで、おおきなゴミ袋のストックがたくさん家にあった。これは助かった。買いに行く手間がはぶけた。なにごとも初動がだいじ。
早く、とっかからなくては。
やる気が削がれるまえに。
タンスのひきだし
まずは洋服ダンスから。
父の肌着や衣類は100%不要。容赦なくジャケット類も靴下もゴミ袋に入れていく。
上段から下段まで手あたりしだいに放りこむ。
父が外に出るのは食料品の買い物だけだった。心臓がわるく、あるいて買い物に行くよりも車を運転したほうがラクだったらしい。
なので服も最低限。靴も一足。
ひとづきあいがあり散歩や買い物などで歩いていたら、もうすこし服があっただろうに。この少なさが父の生活のすべてでした。
87歳。身の回りのことができてただけでもありがたい。わたしは、思いやりのかけらも何ひとつなかった。盆と正月だけ実家に帰っていただけ。冷たい娘だ。
玄関の下駄箱にはゴムのサンダルが数足。これは買いだめしていたのかな。靴を履くよりサンダルをひっかけたほうがラクだ。ゴミ出しとか、郵便受けから新聞を取るのに。
父のことだ、汚れたらすぐに捨てたのだろう。
衣類だけは、すぐにすんだ。
ゴミ袋に詰めただけ。
父が着道楽なら無限に衣類と格闘していたはず。
母がいたら、どうだったのだろう……。
母親。まったく想像がつかない。
両親の離婚
わたしが中学一年のとき、両親が離婚。母は出ていった。
追い出された、にちかい。
父は、じぶんが子育てもできないくせに、親権だけは取った。
子どもからすれば親の都合、親の勝手。離婚とは、なにが正義かわからない。生活力のない子どもは、言いたいことも飲みこみ、何もなかったことにする。
親の離婚をすべて納得して生きている子どもは、いるのだろうか?
父からは、わたしにわかるような説明も詫びもなかった……。
これは、昭和の父子家庭の典型だったのかもしれない。それから母とは会っていない。
冷たい娘
……思い出した。
わたしが二十歳ぐらいのとき、○○区役所から封書がきた。
「母が生活貧困のため、子どものわたしに月々の援助を……」うんぬんの内容。
祖母と父はそれをブロックした。
そんな封書が来ていたことも、母が田舎にも帰れず大阪で暮らしていたことも。
何年か後に、父が封書を出してきた。
「お金をくれって来てるけどな」
「援助してもいいけど」
月々、たった一万円でも送金はできる。心のなかでつぶやいた。
「なんやて?
一生、金を払い続けなアカンのやで。
もう断っといた。関わりませんて返事を送った」
(郵便物を勝手に開けるだけでも、やってはいけないことだ。
それすらもアンタはわからんのか!)
この一件で、この家にいるのがイヤになってしまった。
本当に、母に送金や援助する気があるんなら、すぐ○○区役所に出向いたはずだ。
わたしは、そこまでの気もなかったのに。なにを怒っていたのか。
それから封書は来なかった。
わたしのまえには。
母はもう……この世にはいないのだろうな。
封書は来なかったから、わからない。
封書が来ても、わからない。
父の衣類の片づけ終了。
それでも10袋、たった10袋。
ひとつひとつ袋のくちを結ぶ。
ぎゆっ!
きつく結ぶ。つぶす。
袋からはみ出さぬように。
ひと袋
古着のゴミ回収日に出す。
また、ひと袋。ふたふくろ。
すこしづつ。
いちどに大量は回収されない。
処理されないのだ。
人間のきもちというものは。
いつも こころに うるおいを
水分補給も わすれずに
さいごまでお読みくださり
ありがとうございます。
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