写経のススメ
さて、実は私は字が下手である。それはどれ程なのか?と問われれば、他人が読めない程だとか、解読不能と混乱に陥ってしまう。と、言えばご理解いただけるだろうか?原因は小学生の頃ほとんど不登校で満足に通わず、やっと中学から学業に取り組んだので、字の形を覚えるのに精一杯であり、書く事は後回しにしたからだと自己分析をしている。
そんな私が写経に取り組んだのは、御朱印巡りを行うようになっての事だ。御朱印とは本来は納経の証として頂くもので、スタンプラリーではない事は知ってはいたが、やはり心のどこかに引っ掛かりがあり、写経を奉納し、御朱印を貰いたいと考えるようになった。まぁ、ついでに悪辣な字の改善も考え、周囲に多少でも解読可能な文字で伝えたい事を伝えようといった、一挙両得を企んでいたのも間違いないだろう。とにかくせっかく写経をやるのなら、大人なのだし道具も楽しみたいではないか?と、既に物欲、煩悩満載である。そこで最初に購入したのが、般若心経の写経手本と紙である。般若心経は日蓮宗と浄土真宗大谷派本願寺派以外のほぼ全ての仏教に納経が可能なので選んだのは、本質的には信仰を強く持たない習慣からだろう。
次に購入したのは、筆と硯と墨である。
中国は端渓の硯が良いと調べ、本当に小さな物を5000円程で購入。墨は奮発し3000円の高級な油煙墨を、筆は続けるのなら数本はあったほうが筆を休ませられるといった事で、小筆を3000円から5000円程度の物を購入した。高級な物でも写経程度の墨量ならば殆どが小さく済み、数千円で高級な物が使える。実際には硯にしても大きな物は驚きの価格になるし、とんでもなく奥深い知識が石の産地から必要になる。それは筆や墨も同じ事が言える。
写真は半月程、頑張った後の物だし、墨汁で書いた物だ。また、般若心経ではなく、日蓮宗の寺院に納めるお経である。
長谷寺は浄土宗であり、極楽寺は真言宗であるから、双方、般若心経を納経しました。私は形から入る事が好きなので先ずは本堂にお参りし、それから受付へ、納経の希望を伝え、奉書紙に巻いた経を納めました。奉書で巻いたと言うのは、よく百姓が直訴したり、殿様に書いた文を差し出す時に近代の封筒のような物に入れてるアレでして、裏書にお経の名前や自身の名を書いて出せば、何のお経なのか先方に伝わり易いからです。御朱印も気持ちの上では納経をした後ではまた格別なのは自己満足でもあります。
※本来は本堂で写経の終えた物を読経、それから奉納。これは難易度高め
世の中には知らない事がたくさんあり、文房四宝という言葉を知りました。文字を書く上での宝。それは四つあり、筆、墨、硯、紙の事を指します。この中で消耗品でない一生物は、硯のみとなり、他は使えば使う程、無くなってゆく一過性の物です。それでもまさに全て宝物なのが書いていると良くわかります。煩悩と物欲で生きている私は、次々と道具揃えが楽しくなります。だんだん本質からズレて行きます。
私は形から入るので、写経をする時はきちんと香も炊き、部屋の空気を浄化したりします。香も拘ればキリの無い世界であり、私は沈香、とは言っても科学合成の変な物ではない煙の少ない物を使ってます。日本香道さんのです。
会社の人に書道師範の資格を持った人がおり、その人が写経と習字は違うと、まぁ当たり前の事を言われ、習字もその人の簡単な指導の下、初めました。
ド下手なのはまだ一ヵ月だから!というのは、言い訳ですが、兎に角ひたすらに書いてます。質より量だ!と言えばそうなのだが、なんとか継続しております。
効能としては心静かに経や文字と向き合って、さらにまた物欲大魔王の降臨を招く事です。文字の上達に合わせて、では、続く性格ではないので、買った物を使いたい!という欲求に頼る訳です。
ついに高級な大きな硯まで一ヵ月で手を出す始末。分布相応な物に分を合わせる努力を続けるのだと、私は勿論、心に言い訳をするのです。この硯は写経にはデカ過ぎて使えません。なのになぜ?
写経前に手を清めたり、お参りの際に手を清める塗香と、その塗香入れ。塗香とは、粉になったお香であり、それを手に刷り込んだりして清めます。
無垢材の紫檀、小さな経机。
ここまで来ると、ほんと我ながらバカだなぁと、思う訳です。物欲大魔王が到来し、写経の為にもその煩悩を発揮する本末転倒さ。もう後には引けません。納経、御朱印、100寺、全宗派全総本山を目標に致します。終わる頃には少しは道具に見合う字の上達に近づきたいかなぁと。そう切に願うところである。
弘法筆を選ばず!
いや、わかってますって。