このパユットー師の「仏法の思考と実践」という本を読んでいくにあたって、ちょこちょこnoteに書いていこうと思いました。ご興味のある方は読んでいただけると嬉しいです。またコメントなどもお待ちしています🙏😊
仏道は旅に出ることで、信が資金なのだと、この例え。
資金がないのに旅に出たら、どこぞでまた資金を調達せねば。
如来の大悟の慧を信じる。
最初はこれが必要なのですね。
これがなければ、旅に出られないということです。仏道へ進めないということか。
この信(Saddhā)についてなんですけど、、
これはけっこう難しい。。😂
信は仏道修行の慧を開発する過程の一段階に過ぎず、最初の段階だと言える。とパユットー師は「仏法」では書かれてあります。
というのも、慧が開発されてくると、信は必要なくなると言いますか、
「仏法」では、
信 → 正見 → 正智 → 正解脱
このように書かれてあり、これは慧の増進を簡単に書いた図とされています。
正智になると、信は全く残らない、慧によって完全に置き換わるからであると書かれてありました。
えっと、難しいんですけど、八正道の最初に正見、があるのは、やはり私たちは自分の見というのは、物事を見たいように見ているので、最初は信から始めるのだということなんだと思います。
正しい見方ができない私たちは、正しい見方というものを、先生に教えてもらう。こんな感じでしょうか。
これは私の考えかな。
私たちは、世の中というもの、事象という事象、自分の中に浮かんでくる思考や感情も、見たいように見るんです。👀
言ってみればそれがview。私が見ている景色です。何か景色を見た時、それがそのまま正しくて、事実のようにそこにあるように見える。
まあ、あるんですけど😂
そこを乗り越えないといけないというのはやっぱり、仏道の大変なところだなあと思うわけです。
慧がそこにあれば、そこには正見があるんだと思います。そうすると、そこからは煩悩は生じない。のでしょうと思います。これは私自身の実践の中で確認していることでもあります。
「友よ、あなたも善をなすことができる、どうして自分自身を蔑視されるか」(Kalyāņaṁ vata bho sakkhi attānaṁ atimaññasi)
仏陀は私たちを、応援してくださる先生なんですね〜。
開発していきなさいと。
人間は唯一、自分自身を開発していける存在なのですよ〜って、たぶん仰られてるんです。
パーリ語🙌
仏道の、道。これはたぶんパーリ語では、
magga (マッガ)
もう一つ道を表すパーリ語があって、
paṭipadā (パティパダー)
この二つとも、道という意味があるんですけど、違いは何かな?と気になって調べてみました。
パーリ語には男性名詞とか女性名詞とかのように単語によって男性女性の性別の区別があったりするんです。面白いですよね。
maggaは男性名詞で、paṭipadāは女性名詞です。
maggaは、探求するとか追求していく 正道
paṭipadāは、行、実践そのもの 行道
このような違いがあるみたいです。
パーリ語を勉強していると、単語の意味がすごく気になって、ずっと調べちゃうのでなかなか次へ進めないという。。😂
でも面白くてちょっとだけハマってます。ちょっとだけですよ🤏
次回は、資具。仏道に必要な道具🪚?ノコギリはいらないと思いますけど、資具について書いていこうと思います。
生きとし生けるものが幸せでありますように