戦国!室町時代・国巡り(4)近江編
【0】はじめに
近江国:石高77万5000石(1598年)
丹波、若狭、山城、越前、伊賀、伊勢、美濃に接する。
江北(北近江)
湖北 坂田郡/浅井郡/伊香郡
湖西 高島郡
江南(南近江)
湖東 蒲生郡/神崎郡/愛知郡/犬上郡
大津 滋賀郡
湖南 栗太郡//野洲郡
甲賀 甲賀郡
(2)年表
【1】六角氏
宇多源氏佐々木氏の一族。鎌倉時代に近江他数ヶ国の守護に任じられていた佐々木信綱は、4人の息子に近江を分割し継がせた。このうち、江南(南近江)を継いだ三男の泰綱は佐々木宗家を継ぎ、六角氏の祖となった。六角氏と名乗ったのは、京都六角東洞院に佐々木泰綱が屋敷を得たからと言われている。
①六角泰綱(1213-1276)初代当主
②六角頼綱(1242-1311)泰綱の子。2代当主
③六角時信(1306-1346)頼綱の子。3代当主
④六角氏頼(1326-1370)時信の子。4代当主
⑤六角義信(1349-1365)氏頼の嫡男。5代当主
⑥六角満高(1365?-1416)氏頼の次男。8代当主
⑦六角満綱(1401-1445)満高の子。9代当主
⑧六角持綱(?-1445)満綱の子。10代当主
六角時綱(?-1446)満綱の子。
⑨六角久頼(?-1456)満綱の子。11代当主
⑩六角高頼(?-1520)久頼の子。12代当主
⑪六角氏綱(1492-1518)高頼の子。13代当主
⑫六角定頼(1495-1552)高頼の子。14代当主
⑬六角義賢(1521-1598)定頼の子。15代当主
⑭六角義治(1545-1612)義賢の子。16代当主
⑮六角義定 (1547-1620)義賢の子。17代当主
(2)六角時信
(1306-1346;在1311-1335)
頼綱の子。
子に 氏頼、佐々木直綱、山内信詮、光綱。
廃嫡された長兄の頼明に代わって嫡子となる。1311年の父の死後に家督を継ぎ、近江守護となった。1314年に元服し、時信と名乗った。
1331年の元弘の乱では鎌倉幕府方につく。
足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと尊氏に従うものの、庶流の京極氏当主佐々木道誉に一時的に近江守護職を奪われるなど不遇をかこつ。
家督を子の氏頼に譲り出家する。
(3)六角氏頼
(1326-1370;在1335-1351、1354-1370)
時信の子。
子に義信、満高。
1335年頃、父・時信が出家したために幼くして家督と近江守護職を継ぐ。
近江国守護職をめぐり京極氏の佐々木道誉と争う一方、道誉の娘を妻に娶るなど関係改善にも努めた。
観応の擾乱では道誉と共に尊氏・高師直派に属していたが、1351年直義派が有利となると直義方に降る。同年、家督を長男の義信に譲る。
この後、近江守護に弟の山内信詮・直綱や義信が選ばれたり、道誉が足利義詮から佐々木氏の惣領格に任命されている。
1354年には復帰し、義信に代わって近江守護に復した。
1365年、嫡男の義信が17歳で夭折。京極氏から道誉の孫で嫡男の高経を猶子に迎え後見を務めた。
近江守護は高経が引き継いだが、晩年に生まれた氏頼の子・亀寿丸が元服すると、近江守を解かれて京極家に戻された。
(4)六角義信
(1349-1365;在1352-1354)
氏頼の嫡男。
1351年、家督を承継する。幼少であったために叔父・山内信詮(定詮)が近江守護となる。山内信詮が直義方につくと代わってもう一人の叔父である直綱が近江守護になった。
1352年から守護職に補任されるが、1354年には父・氏頼が復帰し、近江守護に就いた。
1362年、元服。義詮から偏諱を受けて義信と改名した。
1365年、急死。
(5)六角満高
(1365?-1416;在1377-1416)
氏頼の次男。
子に 満綱。
1377年、元服すると、京極氏から迎えられていた先代・高経に代わって家督を承継する。
3代将軍・足利義満に信任され、子・満綱の室に義満の娘を迎えている。
義満の死後、足利義持が将軍になると六角氏と幕府との関係は悪化。
1411年、飛騨の乱では飛騨国への出陣命令を拒否、一時守護を解任され、青木持通が任ぜられたが、すぐに復帰している。
(6)六角満綱
(1401-1445;在1416-1441)
満高の子。
子に持綱、時綱、久頼、三井高久。
父が亡くなり家督と近江守護職を継承した。
6代将軍・足利義教の信任を受け、1434年には比叡山延暦寺と対立し京極持高と共に延暦寺攻撃に加わり、近江国内の延暦寺領を没収していった。
1441年の嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺されると後ろ盾を失い、同時に発生した嘉吉の徳政一揆で領内は混乱する。
同年、近江守護を解任され、家督と守護職を嫡男・持綱に譲る。
1445年、反対勢力に擁立された次男・時綱によって持綱と共に自刃。
(7)六角持綱
(?-1445;在1441-1445)
満綱の子。
子に持信。
1441年、父・満綱が嘉吉の徳政一揆の責任を取らされ近江守護を解任され、代わって守護に任命された。
1444年、一揆を結成した家臣団に弟・時綱が擁立され、反乱を起きる。翌1445年、一揆に攻められ父と共に自刃。
(8)六角久頼
(?-1456;在1446-1456)
満綱の子。法号:周恩。官位:近江守。
子に高頼。
相国寺の僧籍にあったが、父と兄が自刃したため、1446年、還俗して久頼と名乗り家督を相続した。
守護代・伊庭氏の権勢が高まり、同時に京極持清からも干渉を受け、六角氏は危機的時期を迎えた。
1456年、自死。
(9)六角高頼
(?-1520;在1456-1506)
久頼の子。幼名:亀寿丸。行高。
子に氏綱、定頼、大原高保、和田高盛、梅戸高実、真玄、武衛娘、今出川季孝室、京極材宗室。
1456年、父の自死によって幼くして家督を相続した。
1458年、幕府は従兄・六角政堯に六角氏の家督相続を認める。
1460年、政堯が伊庭満隆の子を殺害した事件を機に幕府が政堯を追放し、亀寿丸が当主に復帰した。
1467年、応仁の乱では西軍に属し、東軍の京極持清らと京都で戦う。
持清の嫡男・勝秀及び家臣の多賀高忠と従兄・六角政堯が高頼の本拠地観音寺城を攻めると近江に戻り政堯や京極氏と交戦した。
政堯を討ち取り、京極騒乱で京極氏が弱体化すると南近江の安定化に努めた。
応仁の乱後、公家領・寺社領や奉公衆の領地を押領して配下の国人衆に分け与えたため、9代将軍・足利義尚らの反発を受ける。
1487年に義尚の親征を受けて観音寺城を捨て、甲賀山中に逃亡。
1489年、義尚が鈎の陣にて没したため親征は中止となり、10代将軍・足利義材(のちの義尹、義稙)に赦免され近江守護に復帰。
しかし、1491年に義材による再度の追討を受けた(長享・延徳の乱)。再び領地を捨てて甲賀山中に逃亡した。
1492年、愛知河原の合戦に敗北。政堯の養子・虎千代が守護に任じられる。
1493年、明応の政変で義材が廃立、11代将軍として足利義高(後の義澄)が将軍となる。この頃高頼は守護になった山内就綱と戦っていたが、斎藤妙純らの支援を受けてこれを退ける。
1495年、将軍・義高によって近江守護に復帰、義高の偏諱を受け高頼と改名した。
同年、船田合戦では石丸利光に与した為、斎藤妙純による近江遠征を招く。延暦寺や北畠政郷らの支援を受け、危機を脱する。
1502年、第一次伊庭氏の乱。伊庭貞隆が山内就綱の協力を得て挙兵。馬淵城・永原城を攻め落とした。高頼は観音寺城を出て蒲生貞秀を頼って音羽城に落ち延びた。細川政元の介入で和睦。
1506年、嫡男・氏綱に家督を譲って隠居。
1507年6月に管領・細川政元が暗殺される(永正の錯乱)。その直後に将軍・義高は六角氏による所領押領を理由に上洛中の高頼と対立する。高頼は伊勢貞宗の取りなしにもかかわらず、近江に帰国してしまう。
1508年4月、前将軍・義材(義尹)が大内義興・細川高国らの支援で義高(義澄)を追放して将軍に復帰すると、義高(義澄)を保護する。
しかし、1511年に義高(義澄)が病死すると、匿っていた水茎岡山城主・九里信隆を討ち取って義材(義尹)支持を表明した。
晩年は守護代・伊庭貞隆と争う。1502年には細川政元、1514年には浅井亮政の支援を受けた伊庭貞隆によって、高頼は一時、蒲生貞秀の拠る音羽城へ敗走させられた。
(9-2)長享・延徳の乱(1487・1491)
(10)六角氏綱
(1492-1518;在1506-1518)
高頼の嫡男。幼名:亀王丸。正室は足利政知娘。
子に 義実、仁木義政。
1506年、父の隠居により家督を継ぐ。
1516年頃から細川氏との戦いで受けた戦傷が原因で病床に伏し、弟・承亀(定頼)が執務を行っていた。
(11)六角定頼
(1495-1552;在1518-1552)
高頼の次男。
子に細川晴元継室、義賢、義頼、土岐頼芸正室、北の方、武田信豊室
如春尼。
1499年、京都相国寺・慈照院に出家。
1516年、兄・氏綱が戦傷が原因で病床に伏したため、執務を代わって行う。
1518年、氏綱が没すると還俗し、家督を継ぐ。
1520年、伊庭貞隆の乱を鎮圧。
同年、等持院の戦いで細川高国に合力し細川澄元配下の武将である三好之長を破り、両細川の乱を終結に導いた。後に義稙が高国と対立して出奔すると、12代将軍・足利義晴の擁立に高国と共に貢献し、1546年に義晴からその功績により管領代に任命され、さらに従四位下に叙されることとなった。
同年、細川高国を支援、江口の戦いで三好長慶と争う。浅井氏が久政の代になると事実上従属下に置くなどして、六角家の全盛期を築き上げた。
1552年、死去。
(12)六角義賢(承禎)
(1521-1598;在1552-1557)
定頼の子。
子に 義治、義定、(畠山義綱正室)、佐々木高一(梅心斎)。
1533年、元服。室町幕府12代将軍・足利義晴より偏諱を受け、義賢と名乗った。
1552年、父の死去により家督を継ぐ。
1557年、嫡男・義治に家督を譲って隠居。剃髪して承禎と号す。
1558年、北白川の戦いの後に義輝と長慶の和睦を仲介。
1560年、野良田の戦い。浅井長政に大敗。
1561年、将軍地蔵山の戦い。
1562年、久米田の戦い。
1563年、観音寺騒動。義治が重臣・後藤賢豊を観音寺城内で惨殺する。家臣団の手で義賢・義治父子は観音寺城から追われたが、重臣・蒲生定秀・賢秀の仲介で観音寺城に戻ることができた。
1565年、永禄の変で、将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害される。義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が近江の和田惟政の下に逃れる。当初、義賢は覚慶の上洛に協力する姿勢を見せ、織田信長・浅井長政の同盟の斡旋をしていたものの、三好三人衆の説得に応じて義昭(覚慶)を攻める方針に転じたため、義昭は朝倉義景の下に逃れた。
これを受けて、1566年、浅井長政が六角領に対して侵攻を開始、蒲生野合戦が起る。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、三好三人衆と通じて信長の従軍要請を拒絶、織田軍と戦った。観音寺城の戦いで大敗を喫し、観音寺城から南部の甲賀郡に本拠を移す。
1570年6月には体制を建て直し、甲賀郡から南近江に北進、長光寺城に立て籠もる信長の重臣・佐久間信盛と柴田勝家を攻め、野洲河原の戦いが起る。
同年8月には義治と共に朝倉義景・浅井長政や三人衆らと同盟し、野田城・福島城の戦いが起る。
11月に足利義昭を通じて織田信長と和睦。
1572年1月、甲賀郡から再度出陣し、湖南の三宅城・金森御坊(金森の一向一揆)と共に信長に抗戦。
1573年4月、湖東に進出し鯰江貞景の鯰江城に入る。朝倉義景・浅井長政が討たれた後の9月、鯰江城も陥落。甲賀郡北部の菩提寺城と石部城も佐久間信盛に包囲される。
翌1574年、菩提寺城と石部城も陥落。
1581年、天正伊賀の乱。伊賀も織田軍に平定される。この年キリシタンの洗礼を受ける。
その後、豊臣秀吉の御伽衆となり、1598年、死去。
(13)六角義治
(1545-1612;在1557-1567)
義賢の嫡男。義弼。
子に 大原高賢室、六角定治室。
1557年、父・義賢が隠居すると、家督を継ぐ。ただし、実権は義賢が握ったままだった。
1560年に浅井氏に対抗するため、美濃斎藤氏との縁組を進めようとするが、父の勘気をこうむる。
1563年、観音寺騒動。義治が重臣・後藤賢豊を観音寺城内で惨殺する。家臣団の手で義賢・義治父子は観音寺城から追われたが、重臣・蒲生定秀・賢秀の仲介で観音寺城に戻ることができた。
1567年、蒲生野の戦いでの浅井長政への敗北を理由に義治が隠居、義定が家督を継ぐこととなった。
その後は、織田信長の南近江侵攻に抵抗し、父・義賢と行動を共にした。
石部城が陥落すると、京都を追放された足利義昭に従い、毛利氏の庇護を受ける。
後に豊臣秀吉に使える。
(14)六角義定
(1547-1620)
義賢の次男。
子に高賢、高和、青地等定ら。
当初は大叔父・大原高保の跡を継ぎ、大原氏を名乗った。
1567年、蒲生野の戦いでの浅井長政への敗北を理由に義治が隠居、義定が家督を継ぐこととなった。
その後は、織田信長の南近江侵攻に抵抗し、父・義賢と行動を共にした。
(15)六角高賢
(16)六角高和
【2】六角氏の一族
(1)六角持信(政信)
(2)六角時綱
(?-1446)
満綱の次男。
子に 政堯。
1444年、兄・持綱に不満を抱いた家臣団から擁立され、1445年に父と兄を自殺に追い込んだ。久頼と京極持清の軍勢に攻め込まれ、飯高山で家臣団と共に自害した。
(3)六角政堯
(?-1471)
時綱の子。
養子に虎夜叉、虎千代。
六角久頼が自死した後、その跡を継いだ亀寿丸(六角高頼)の後見人を務めた。1458年、室町幕府によって亀寿丸は追放され、政堯が近江守護に任命され六角氏の当主となった。しかし、1460年に守護代・伊庭満隆の子を殺害した事件を機に政堯も廃嫡、家督は亀寿丸に戻された。
1467年、応仁の乱が勃発すると、西軍についた六角高頼に対し、政堯は東軍につき京極勝秀と共に近江の六角氏の本拠地観音寺城を陥落させ、東軍によって近江守護に再任された。しかし、後に東軍は政堯を解任、近江守護に勝秀の父である京極持清を任じた。
1470年に持清が死去、勝秀も先に没していたために、京極氏でお家騒動に発展した(京極騒乱)。
1471年、孫童子丸死後に三度目の近江守護に任命された。
同年10月に六角高頼に敗れ、戦死した。
(4)六角義実
(5)六角政勝
[二]梅戸氏
梅戸高実(1502-1561) 六角高頼の四男。梅戸氏の養子。
梅戸実秀(?-?) 高実の子
【3】六角氏の家臣
鏡氏(佐々木氏一族)
大原氏(佐々木氏一族)
高保()
山内氏(佐々木氏一族)
信詮()
高信()
詮綱()
勝綱()
政綱()
就綱()
伊庭氏(佐々木氏一族)
実高 氏祖。佐々木経方の子、行実の四男。
満隆()守護代
貞隆()満隆の子。
貞説()貞隆の子。
行隆()
馬淵氏(佐々木氏一族)
広定()氏祖。
義綱()
建綱()
宗綱()
秀信()
青地氏(佐々木氏一族)
基綱()馬淵広定の四男。青地氏の養子となる。
基氏()基綱の子。
忠綱()基綱の子。基氏の弟。青地城を築城。
冬綱()忠綱の子。近江守護代
氏重()
重頼()
長綱()
茂綱(?-1570)蒲生定秀の次男。重頼の養子。
元珍(1560-1633)茂綱の子。
堀部氏(佐々木氏一族;馬淵氏より別れた)
吉田氏(佐々木氏一族)
厳秀()氏祖。佐々木秀義の子
重賢(1463-1543) 川守城主。吉田流弓術を興す。
重政(1522-1581 )
重高 ()
重勝 ()
平井氏(佐々木氏一族)
家次()氏祖。佐々木支流愛智氏系、愛智家行の次男。
定武 () 栗太郡・平井城主。六角の六宿老。
高明 ()定武の子。
池田氏(佐々木氏一族)
景世()
景雄(1528-1597)蒲生郡・浅小井城主。別名:池田秀雄
秀氏(?ー?)景雄の子。
貞雄()秀氏の子。
山崎氏(佐々木氏一族)
重家()
宗家()丹波守。
片家(1547ー1591) 近江山崎城主。
家盛(1567ー1614) 片家の子。因幡国・若桜藩初代藩主。
家治(1594ー1609) 家盛の子。
頼久(1570ー1609) 片家の三男。宮城豊盛の婿養子。別名:宮城頼久
目賀田氏(六角氏被官)
信忠()氏祖。藤原兼家の三男の道綱の子である道忠の子。
綱清() 蒲生郡・目賀田城主。六角の六宿老。
忠朝() 綱清の子。
貞政() 忠朝の子。
堅綱(1582)貞政の子。
堅政() 堅政の子。
後藤氏(藤原秀郷流)
賢豊(?-1563)六角の六宿老。
高治(?-1589)賢豊の次男
蒲生氏(藤原秀郷流)
貞秀()蒲生郡・音羽城初代城主。14代当主。
秀行()貞秀の子。15代当主。
秀紀()秀行の子。16代当主。
高郷() 蒲生郡・日野城主。貞秀の子。
定秀 (1508-1579) 蒲生郡・日野城主。高郷の子。
賢秀 (1534-1584) 蒲生郡・日野城主。定秀の子。
氏郷 (1556-1595) 賢秀の三男。
秀行 (1583-1612)氏郷の嫡男。
忠郷 (1602-1627) 秀行の嫡男。
忠知 (1604-1634) 秀行の次男。
樽崎氏(六角氏被官)
井河氏(六角氏被官)
三雲氏(国人衆)
実乃()氏祖。
行定()実乃の子。甲賀郡・三雲城主。甲賀五十三家.
定持(?-1570)行定の子。
賢持(?-1566)定持の嫡男。
成持(1540-1603)定持の三男。六角の六宿老。
成長(?-1635)成持の子。
進藤氏
長久(?-?)
貞治(1497-1551)木浜城主。
賢盛(?-?)
猪飼氏
宣尚(~) 竪田水軍。
昇貞(~)
秀貞(~)
永田氏 (国人衆)
賢弘 (?-?)
景弘(?-1582) 蒲生郡・永田城主
三上氏
頼安()
恒安()頼安の子。
永原氏(国人衆;当初馬淵氏に仕える)
吉重()
重泰(重秀)() 吉重の子。
重隆(?-1550) 野洲郡・小堤城山城主。重泰の子。
重興(?-1562) 重隆の子。
重虎() 重興の長男。
久重() 重興の次男。
三井氏
治秀() 重興の子。
山中氏(橘諸兄の後裔)
道俊()
頼俊()
貞俊()甲賀五十三家。
久俊()貞俊の長男。
俊好()貞俊の次男。
為俊()甲賀郡・山柏木城主。山中氏庶流。
長俊()為俊の子
布施氏(国人衆)
公雄()布施淡路守家当主。大森城主。
公保()公雄の子。
狛氏(国人衆)
小倉氏(国人衆)
景実()源満季流・近江小倉氏初代。
実澄()
実重()実澄の子
実光()実重の子
実隆(-1564)蒲生定秀の三男。佐久良城主。名跡を継ぐ。
実資()実隆の長男
行春(良清)(-1615)実隆の次男
賢治 ()小倉氏庶流・小倉西家当主。神崎郡・山上城主。
実治( -) 賢治の子。
実房(-1570)小倉氏庶流・小倉東家当主、愛知郡・高野城主。
建部氏
賢文(1522~1590) 箕作城主。青蓮院流の能書家。
秀明()箕作城主。
宮木氏
重祐()
賢祐()
豊盛()
山岡氏(国人衆)
景之()近江の国人領主。志賀郡・瀬田城主。景就の子
景隆(1525~1585) 近江の国人領主。志賀郡・瀬田城主。景之の長男
景佐( 1531~1589) 景隆の景之の次男。
景猶( ??~1599 )景隆の景之の三男。
景友(1540~1604 )景隆の景之の四男。法号:道阿弥
景以(1574~1642) 景隆の七男。
景本(1596~1645 )景以の嫡男。
高野瀬氏
頼定()肥田城主。
秀隆()肥田城主
秀澄()肥田城主
多羅尾氏
光吉( ?-1568) 甲賀郡・小川城主。甲賀五十三家。
光俊( ?-1568)
光太( ?-?) 光俊の子。
種村氏
貞和()
鯰江氏
貞景(?-?)愛知郡・鯰江城主。
貞春()貞景の子。
九里氏
信隆( ?-1514) 蒲生郡・水茎岡山城主。
浄椿( ?- )信隆の子。
宗恩( ?-)
居初又次郎()竪田水軍。
馬場孫次郎()竪田水軍。
横山喜内(1550~1600)別名:蒲生頼郷
[二]山内氏
[三]伊庭氏
[四](藤原秀郷流)後藤氏
藤原北家秀郷流の流れを汲む北面武士である藤原実遠の子・後藤実基が佐藤義清(西行)の兄弟・佐藤仲清の子基清を養子に迎えて、後藤氏を名乗ったのが始まりとされる。
後藤賢豊
(?-1563)
後藤但馬守の子。
子に壱岐守、高治。
進藤氏と合わせて「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老だった。
六角義賢から家督を譲られた義治は大きな勢力を有する後藤氏を危険視、1563年、賢豊は観音寺城に登城した際に長男ともども殺害された。
後藤高治
(?-1589)
1563年、観音寺騒動で父・賢豊と長兄・壱岐守を主君・六角義治によって殺害されたため、敵対したが、1567年に和睦して後藤氏の家督を相続した。六角氏式目に連署。
1568年、織田信長が上洛を目指すと、六角氏のもとを離れて信長に臣従した。
1569年8月の大河内城攻め、1570年9月の志賀の陣、1573年7月の槇島城の戦いに参加。
1582年、本能寺の変が起ると、明智光秀に与して山崎の戦いに参加。所領を失う。
以後、従兄弟にあたる蒲生氏郷に仕える。
[五]進藤氏
進藤貞治
(1497~1551)
長久の子。
木浜城主。後藤賢豊と合わせて「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老だった。
進藤賢盛
(?-?)
貞治の子。六角義賢に仕えてその偏諱(「賢」の字)を受けた。
木浜城主。後藤賢豊と合わせて「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老だった。
1563年、観音寺騒動では主家である六角家に反抗、後に和睦した。1567年に六角氏式目に連署。
1568年、織田信長が上洛を目指すと、六角氏のもとを離れて信長に臣従した。1569年の大河内城の戦い、1571年には佐久間信盛の与力になり、1573年の槇島城攻め、1573年の一乗谷城の戦い、石山合戦に参加。信盛が追放された後は、第二次天正伊賀の乱にも従軍した。
本能寺の変後は信長の子・織田信雄、のち豊臣秀吉に仕えている。
[六]蒲生氏
(1)蒲生定秀 (1508-1579)
蒲生郡・日野城主。高郷の子。
(2)蒲生賢秀 (1534-1584)
蒲生郡・日野城主。定秀の子。
(3)蒲生氏郷 (1556-1595)
賢秀の三男。
(4)蒲生秀行 (1583-1612)
氏郷の嫡男。
[七]三雲氏
(1)三雲成持(1540-1603)
定持の子。六角六宿老。
1566年、浅井長政との戦いで兄・賢持が討死したため家督を継ぐ。
1568年、織田信長が近江国に侵攻。観音寺城の戦いで六角氏が拠点・観音寺城を失って以降も、六角氏を支える。
1570年、野洲河原の戦いで父・定持が戦死。
1575年、佐久間信盛を通じて織田氏に降伏。
1584年、織田信雄に仕え、旧領復帰を約し、小牧・長久手の戦いに参戦。しかし、信雄と羽柴秀吉が和睦した為に織田氏を離れ、蒲生氏郷に4000石で仕えた。
子の成長は徳川氏の旗本として旧領復帰。
[八]山崎氏
近江山崎氏は、宇多源氏佐々木氏の支族の一つで、源頼朝が佐々木憲家を近江国犬上郡山崎の地頭に任じたのが、始まりとされる。
(1)山崎片家(1547ー1591)
宗家の子。当初は六角義賢より偏諱を受けて山崎賢家と称した。
近江山崎城主。六角義治に仕える。
1563年、観音寺騒動では主家である六角家に反抗、
1568年、織田信長が上洛を目指すと、六角氏のもとを離れて信長に臣従した。
1570年の姉川の戦い、1573年槇島城攻め、1581年の第二次天正伊賀の乱に参加。
1582年、本能寺の変では居城の山崎城に籠るが、光秀に降伏。明智方の将として活動。しかし、光秀が羽柴秀吉によって討たれると、すぐに秀吉に降って犬山郡山崎城の所領を安堵された。
同年、山崎城から摂津国三田城主2万3,000石へ移封。
1583年、近江愛智郡内で1万4000石の知行を安堵。
清洲会議後、織田信雄の家臣となっていたが、小牧・長久手の戦いでは、再び秀吉方に付く。
1587年の九州征伐に参加し、秀吉本陣の脇備として1,000人を率いる。
1590年の小田原征伐にも1000騎を率いて従軍する。
1591年、伏見で死去。
(2)山崎家盛(1567ー1614)
片家の子。因幡国・若桜藩初代藩主。
[十]六角氏式目
[十一]甲賀五十三家
甲賀六家:青木・山中・隠岐・池田・和田、三雲
甲賀二十一家:
望月家 - 筆頭格。
山中家(柏木三家)〇
伴家(柏木三家)
美濃部家(柏木三家)
黒川家(北山九家)
頓宮家(北山九家)
大野家(北山九家)
岩室家(北山九家)
芥川家(北山九家)
隠岐家(北山九家)
佐治家(北山九家)
神保家(北山九家)
大河原家(北山九家)
大原家(南山六家)
和田家(南山六家)〇
上野家(南山六家)
高峰家(南山六家)
池田家(南山六家)
多喜(滝)家(南山六家)
鵜飼家(荘内三家)
内貴家(荘内三家)
服部家(荘内三家)
小泉家
倉治家
夏見家
杉谷家〇
針家
小川家
大久保家
上田家
野田家
岩根家
新城家
青木家
宮島家
杉山家
葛城家
三雲家〇
牧村家
八田家
高野家
上山家
高山家
守田家
嶬峨家
鳥居家
平子家
多羅尾家〇
土山家
山上家
相場家
長野家
中山家
【4】京極氏
宇多源氏佐々木氏の一族。鎌倉時代に近江他数ヶ国の守護に任じられていた佐々木信綱は、4人の息子に近江を分割し継がせた。このうち、江北(北近江)にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡と京都の京極高辻の館を継いだ四男の氏信を祖とする一族が後に京極氏と呼ばれるようになる。足利尊氏に仕えた佐々木道誉(京極高氏)の活躍により、京極氏は室町時代に出雲・隠岐・飛騨の守護を代々務め、四職の一つとして繁栄した。
①佐々木氏信(1220-1295)
②佐々木宗綱(1248-1297)
③佐々木貞宗(1287-1305)
④佐々木宗氏(1269-1329)
⑤佐々木高氏(道誉)(1296-1373)
⑥佐々木高秀(1328-1391)出雲・飛騨・隠岐守護。
⑦京極高詮(1352-1401)近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見守護。
⑧京極高光(1375-1413)出雲・隠岐・飛騨守護
⑨京極持高(1401-1439)出雲・隠岐・飛騨守護
⑪京極持清(1407-1470)出雲・隠岐・飛騨・近江守護
⑫孫童子丸(1466-1471)出雲・隠岐・飛騨・近江守護
⑬京極政経(1453-1508)出雲・隠岐・飛騨・近江守護
⑭京極高清(1460-1538)出雲・隠岐・飛騨・近江守護
⑮京極高延(?-?)
⑯京極高吉(1504-1581)
⑰京極高次(1563-1609)
京極高知(1572-1622)
⑱京極忠高(1593-1637)
(1)佐々木高氏(道誉)
(1296-1373)
宗氏の子、母は宗綱の娘、貞宗の養子。
子に 秀綱、秀宗、高秀、赤松則祐正室、斯波氏頼室、六角氏頼室
1322年、検非違使となる。
執権北条高時に御相供衆として仕え、高時が出家した際には共に出家して導誉と号した。
1331年、元弘の乱では、後醍醐天皇が隠岐島へ流された際には導誉が道中警護などを務めた。
建武の新政が開始されると、六角時信や塩冶高貞ら他の一族と共に雑訴決断所の奉行人となる。
1335年、中先代の乱では尊氏の弟の足利直義が守る鎌倉を攻めて占領した北条時行の討伐に向かう尊氏に導誉も従軍している。
建武の乱では、足利方として手越河原の戦いに参加するが新田義貞に敗れ、弟の貞満らが戦死。導誉自身は義貞に降伏し、以降新田勢として従軍して足利方と争うが、箱根・竹ノ下の戦いの最中に新田軍を裏切り足利方に復帰。
導誉を加えた足利方は新田軍を追い京都へ入り占拠するが、奥州から下った北畠顕家らに敗れた足利軍は京都を追われ、兵庫から九州へと逃れた。この時導誉は近江に滞在して九州下向には従っていないともされる。
足利軍は九州から再び東上、導誉は東から援軍として来た信濃守護小笠原貞宗と共に、補給路である琵琶湖を封鎖する(近江の戦い)。
室町幕府が成立すると若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任。
1337年、勝楽寺に城を築き、以降没するまで本拠地とした。
1340年。長男の秀綱と共に白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ち、朝廷から幕府に対して導誉を出羽に流すように命じられるが、幕府はこれを拒絶。上総に配流される。翌年には、幕政に復帰する。
1350年、観応の擾乱。導誉は師直派・尊氏派であったが、1351年、尊氏・義詮父子から謀反の疑いで播磨の赤松則祐と共に討伐命令を受ける。これは陰謀であり、尊氏は導誉を討つためと称して京都から近江へ出兵、義詮は赤松則祐討伐のため播磨へ出陣したが、これは事実上京都を包囲する構えであり、父子で京都に残った直義を東西から討ち取る手筈で、事態を悟った直義は逃亡した。
1358年、尊氏が薨去した後は、政所執事などを務めた。
1366年、貞治の変では、斯波高経に反発する守護たちを取りまとめ、高経は失脚させた。
(2)佐々木高秀(1328-1391)
佐々木高氏の子。
子に高詮、吾全秀満、尼子高久、宍道秀益、宇賀野高雅、多田満秀。
1365年、佐々木氏宗家・六角氏の当主六角氏頼は、嫡男・義信が17歳で早世、次男も生後まもなかったため、高秀は嫡男である高経(後の高詮)を養嗣子として六角氏を継がせ、次男の秀満を京極氏の跡取りと定めた。
しかし、六角氏頼は4年後に新たに亀寿丸(後の満高)を儲け、翌年に死去。このため跡目争いが生じ、細川頼之が管領を務めていた幕府は高経に対して亀寿丸が成人するまでの後見役を命じる。
1373年、父・道誉が亡くなり家督を継ぐ。
1379年、康暦の政変では、美濃国の土岐頼康と共に政敵である頼之の管領罷免を求め近江で兵を挙げ、3代将軍・足利義満から追討令を受けた六角氏と近江で戦う。そうした中、鎌倉公方の足利氏満も反乱の構えを見せたため、義満は高秀らを許した。高秀は京に上り服従を誓うが、翌日になって斯波義将、土岐頼康らと共に大軍で花の御所を包囲し、再び頼之の罷免を迫り成し遂げる。
しかし京極氏の領国は全て取り上げられて高秀・秀満は失脚、2年後の1381年には赦されたものの飛騨一国しか返還されなかった。
1390年、土岐康行の乱。義満の命で守護土岐康行を追討した。
翌1391年に64歳で亡くなる。
(3)京極高詮
(1352-1401)
高秀の子。
子に高光、高数。
1391年、父・高秀が亡くなると家督を継いだ。高詮は同年に起こった明徳の乱で功績を上げて出雲・隠岐を取り戻し、京極氏の勢力回復に努めた。
出雲へは弟・尼子高久の子・持久を守護代として派遣。その子孫は戦国大名の尼子氏となる。
1399年、応永の乱。細川満元、赤松義則らと共に先鋒を務めた。乱中に大内義弘の石見守護職を与えられた。また、家督を継げなかったことに不満を持った弟・秀満が反幕府方につき挙兵したが、敗れた。
1401年に亡くなる。
(4)京極高光
(1375-1413)
高詮の子。
子に 持高、持重、持清、細川持之室
1411年、飛騨の乱が起ると弟・高数を派遣。
1413年、死去。
(5)京極持高
(1401-1439)
高光の子。
1424年から1428年まで山城守護にも補任された。
1439年、子を残さないまま亡くなった。
(6)京極持清
(1407-1470)
高光の子。
子に 勝秀、政光、政経、畠山政長室。
1439年、兄・持高が子を残さないまま亡くなる。
叔父・高数が家督を継いだともいわれるが、1441年、嘉吉の変で叔父・高数は赤松氏の家臣により殺害される。
そうして、持清が家督を継ぐことになった。
1446年、六角氏において家督争いが生じ、幕府の命により六角久頼を助けこれを鎮めるが、幕府の命により六角久頼を助けるが、久頼は持清との確執を理由に自害してしまう。
1447年、侍所頭人を辞任するが、1449年に再任され、以降1466年まで務める。この間、1460年には出家して生観と号する。
1467年に応仁の乱が起こると、甥・細川勝元の率いる東軍に家臣で従弟の多賀高忠と共に1万余騎を率いて属する。
1468年、西軍についた六角行高と近江で戦い、長男の勝秀と高頼の従兄の六角政堯が高頼の本拠地である観音寺城を落とし、1469年には六角氏が代々務めて来た近江守護職に任じられた。
1470年に64歳で病死した。
(7)孫童子丸
(1466-1471)
勝秀の子。
1470年、祖父・持清が亡くなった際、その嫡子・勝秀が1468年に先立って亡くなっていたために孫の孫童子丸が継ぐ。
補佐役は叔父・政経と守護代・多賀高忠が受け持った。しかし、もう1人の叔父政光と多賀清直がこれに反発、孫童子丸の庶兄・乙童子丸(高清)を擁立して六角高頼と組んで西軍へ寝返ってしまう(京極騒乱)。
1471年に孫童子丸は夭折。
(8)京極政経
(1453-1502)
子に 経秀(材宗)。
1470年、父持清が亡くなると、亡兄勝秀・の嫡子・孫童子丸の補佐役となる。1471年、孫童子丸が死去。次兄・政光及び長兄・勝秀の庶子・高清と家督争いとなる(京極騒乱)。
家臣の多賀高忠・六角政堯らの働きで一時は近江を制圧したが、1471年に政堯が敗死、1472年に六角高頼及び斎藤妙椿の援軍と合流した高清派に大敗、多賀高忠と共に越前に逃れた。
1473年に出雲・隠岐・飛騨・近江守護職に任じられる。
1475年には幕命を受け、高忠及び延暦寺の僧兵・小笠原家長と共に観音寺城下で高清・多賀清直父子・六角高頼と戦い大勝するが、西軍に属した土岐成頼、斎藤妙椿らの軍が高清軍へと加わり、最後は敗れる。
1477年応仁の乱が終わると、翌年には近江守護を解かれ、六角高頼が再び任命された。
1482年、守護代・尼子経久が幕府に背いたため、1984年、政経は幕命を得て出雲の豪族に経久を追放させ、塩冶掃部介を新たな守護代として月山富田城に派遣した。しかし、1486年に月山富田城は経久の奇襲により奪い返されてしまう。
1488年、近江(伊香郡)松尾で高清と衝突、敗れて家臣の多賀経家と共に伊勢梅津へ逃れたが、1489年、近江国人衆の協力を得て高清を追放、1490年に幕府から京極氏当主と近江守護に補任される。
しかし、1492年12月に10代将軍足利義稙に家督を取り上げられ、高清に与えられる。
さらに翌年の明応の政変で立場が逆転して政経が復帰、没落した高清は舅の斎藤妙純の支援で北近江に進出、政経はかつての敵・六角高頼と結ぶ。船田合戦を制した斎藤妙純が近江に出兵、政経は敗れて出雲へ下向した。材宗は近江に残って高清への抗戦を続けるも1505年に和睦、1507年に高清に討ち取られ、北近江は高清、南近江は六角高頼が領有することになった。
(9)京極高清
(1460-1538)
(前半割愛)
1505年、京極政経の子で従弟の京極材宗と和睦し、35年続いた家督争いを終える。同年に上平寺城を居城とする。
1507年に材宗を自害に追い込んで領国統一、重臣・上坂家信の元で北近江の統治を行った。
出雲・隠岐は同族で守護代の尼子経久に押領され、飛騨は国司・姉小路済継と同族の三木直頼に支配され失ってしまったため、出雲・隠岐・飛騨・北近江の4ヶ国あった京極氏の領地は、高清の治世時には北近江(近江半国)のみとなってしまっていた。
上坂家信の死後は、家信の嫡子・上坂信光を頼りに統治をしていたが、1523年に跡継ぎを巡り、長男・高広(高延)を押す浅見貞則・浅井亮政ら国人衆と、次男・高吉を押す高清と信光らに家中は二分する。
1524年に高広派の国人衆(浅見貞則・浅井亮政ら)と高吉派の高清・上坂信光らは戦い(国人一揆)へと及び、敗れた高清と信光らは尾張へと逃れる。
同年、盟主・浅見貞則の専横的な領国支配に対して、浅井亮政を旗頭に国人衆が貞則一族を江北から追放する。その後、江北の実権を握った浅井亮政に不満を募らせた高広は、家督相続で対立した高清と和解し、六角定頼の支援を受けて反亮政派の国人衆と共に亮政に対決姿勢を取った。
1534年、高広と共に亮政の居城である小谷城へ招れて和解する。
1538年に没す。
(10)京極高延
(?-?)
子に高弥・高成。
父が弟に家督を譲ろうとしたため、1523年、父に反発した浅見貞則や浅井亮政、堀元積ら近江国人衆に擁立される。
高延派が勝利し、京極氏当主となったが、実権は浅見貞則にあった。
1525年、浅井亮政が貞則を追放。
1531年、細川晴元を支援したため細川高国側の六角定頼に敗れる。
1533年、六角定頼と和解。
1538年、父が没すると、高吉・六角定頼の軍勢と戦う(太尾山合戦)。
1541年、亮政に対して挙兵。亮政の子久政とも対峙したが、1550年に和睦した。
以後は三好長慶と連携し、六角定頼の子義賢と戦ったが、1553年に六角軍に敗北した後は消息不明。
(11)京極高吉
(1504-1581)
高清の次男。別名:高慶。
子に 高次、高知、松の丸殿(武田元明妻、後に豊臣秀吉側室)、氏家行広室、マグダレナ(朽木宣綱室)。
一時13代将軍足利義輝の近臣として仕えた。
1560年、六角氏と結んで浅井賢政(後の長政)に対して挙兵するも失敗。
高吉は浅井久政の娘を正室に迎えた(京極マリア)。
1565年、永禄の変において義輝が殺害されると、義輝の弟の足利義昭の擁立に尽力する。
義昭が織田信長と対立すると近江に隠居する。
1581年、オルガンティノから洗礼を受けたが、その数日後に死去した。
【5】京極氏の一族
(1)京極高数
(2)京極政光
(3)京極材宗
(4)京極高知
【6】京極氏の家臣
•譜代家臣:今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・浅井・小野・河瀬・二階堂
多賀氏(豊後守家)
高忠(1425-1476) 多賀豊後守家当主。京極高数の子。
多賀氏(出雲守家)
清直(?-1479)京極持清家臣。多賀出雲守家当主。浅井郡・中野城主。
宗直( ?-1487)清直の子。
上坂氏
家信(1462?-1521)京極高清家臣。坂田郡・今浜城主。
信光(1482-1533)家信の三男
定信()信光の子
景信()上坂一門衆。上坂城主。
意信()景信の長男
正信() 意信の子
貞信()景信の次男
下坂氏
正治()
浅見氏
俊孝()
貞則(1474?~1525?)俊孝の子。浅井郡・尾上城主
道西(?-?)貞則の子
景親()道西の子
堀氏
氏政 (?-1487)多賀宗直家臣。坂田郡・鎌刃城主。
頼貞()氏政の子。
秀元()頼貞の子。別名:堀元積
秀村(?-1599) 秀元の子
今井氏(坂田郡・箕浦城主)
秀遠(?-?)
清遠(?-?)秀遠の嫡男。
清秀(?-1531) 秀遠の三男、清遠の養子。
秀俊(?-1531 )清秀の嫡男。
定清(?-1561 )秀俊の嫡男。
秀形()定清の子。
秀信(1492~1533)
河毛氏
清充( ?-?)
清旨( ?-?)
今村氏
氏直( ?-?)
安養寺氏(国人:東浅井郡・安養寺城)
勝光( ?-?)
氏久( ?-?)勝光の子。
氏秀( ?-?)氏久の子。主家滅亡後は阿閉貞征に仕えた。
氏種(1536?~1606)氏秀の子。
三田村氏(東浅井郡・三田村城)
定元( ?-?)
国定( ?-1573)定元の子。左衛門大夫。
家政()定元の子。
元忠()定元の子。
長盛()国定の子。
定頼(?-1573)
光頼(?-1573)定頼の子。
忠政( ?-?)三田村一門衆。
直政( ?-?)忠政の子。
弓削氏
家澄(?-1570)
小野氏
河瀬氏
二階堂氏
新庄氏
直寛) ??~1538 京極高清家臣。坂田郡・朝妻館主。
直昌(1513-1549)直寛の子。
直頼(1538-1612)直昌の長男。
直忠(1542-1620)直昌の次男。
直定(1562-1613)直頼の子。
片桐氏
直重( ?-?)伊香郡・高月館主。
直貞( ?-?)直重の子。
且元( ?-?)直貞の子。
孝利( ?-?)。
為元( ?-?) 。
貞隆( ?-?)。
月ヶ瀬氏
忠清) ??~1573 。
岩脇氏
定政( ?-?)。
久徳氏
義時(?-?)。
百々氏
盛実(?-1560)佐和山城主。
[三]上坂氏
[四]浅見氏
浅見貞則
浅見道西
貞則の子。
子に景親。
浅井氏に仕える。
1573年、小谷城陥落時に織田氏に通じるが所領を没収される。その後、柴田勝家に仕え、賤ヶ岳の戦いにも参加。
[五]堀氏
[六]今井氏
今井定清(-1561)
秀俊の子。
親の仇である六角定頼の庇護を受け成人する。
京極氏との内通と疑われて人質を殺害されたため、六角氏を離れ旧主・京極氏の下に戻った。
だが、恩義ある六角氏には抵抗できず、隠棲する。
1560年、浅井長政に招聘され箕浦城主となった。
[七]今村氏
今村氏直(-1570)
1560年、浅井方で野良田の戦いに従軍。
1570年、姉川の戦いにおいて討ち死、
[八]安養寺氏
安養寺氏種(1536?~1606)
氏秀の子。
浅井家滅亡後、京極高次に仕えた。
[九]三田村氏
三田村氏は浅井家の庶流。
三田村国定(?-1573)
定元の子。
子に長盛。
三田村城主。
大野木秀俊、野村直隆らと共に織田信長から横山城を守る。
小谷城落城の際、討ち死または処刑。
[十]弓削氏
弓削家澄(?-1570)
通称:六郎左衛門。
越前国長崎城主・雅楽助の弟。
当初は京極氏、1541年以降は浅井氏に仕える。
1570年、姉川の戦いにおいて討ち死
[十一]新庄氏
新庄直昌(1513-1549)
直寛の子。
近江新庄城主、朝妻城主。
1538年、父の死により家督を継ぐ。天文年間、近江坂田郡に朝妻城を築く。
摂津江口の戦いで討ち死。
新庄直頼(1538-1613)
直昌の子。正室は佐久間盛重の娘。
子に直定、直綱、堀秀信、直房。養子に虎姫(佐久間盛政の娘、中川秀成室)。
坂田郡・朝妻城主。
1549年、父が江口の戦いで戦死し、11歳で家督を継いだ。
1571年、浅井方の南方の拠点佐和山城の磯野員昌が降伏して開城、その後に朝妻城も降伏した。羽柴秀吉の与力となる。
1583年、賤ヶ岳の戦いに従軍し、近江坂を守備した。この頃、山崎城3万石に封じられていた。
1594年、大和宇陀城主に移封。
1595年、摂津高槻城に移封、3万石。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に与す。戦後、改易。
1604年、常陸国行方郡・河内郡・新治郡・真壁郡・那珂郡、下野国芳賀郡・都賀郡・河内郡の8郡において、3万300石を与えられる。
1613年、死去。
新庄直忠(1542-1620)
直昌の子。
織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えた。
1583年、近江浅井郡に200石の所領を与えられた。1591年に近江蒲生郡250石、1593年に近江坂田郡300石を加増。
1595年、1万900石余りを加増されて、1万4600石を領した。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に与す。戦後、改易。
後に近江坂田郡柏原に知行を得た。
[十二]片桐氏
片桐直貞(1521-1591)
為重の子。
子に且元。
片桐且元
【7】浅井氏
①浅井亮政(1491-1542)浅井直種の子。浅井直政の養子。
②浅井久政(1526-1573)亮政の嫡男。
③浅井長政(1545-1573)久政の子。
(1)浅井亮政(1491-1542)
浅井直種の子、浅井直政の養子
子に久政、高政、政弘、秀政、山城守、海津殿、松市御料(三田村定頼室)、浅井忠種室、千代鶴(六角宗能室)、近江の方(斎藤義龍室)
1491年、北近江・浅井氏の庶流蔵人家・浅井直種の子として生まれる。
浅井氏嫡流の従兄弟・浅井直政の娘・蔵屋と結婚し、嫡流を継承。
京極高清に仕える。
高清が家督を次男高吉に譲る意向を示したことで、お家騒動が発生。
亮政は近江国衆・浅見貞則とともに、高清の長男高延を後継者に推し、高清と対立。主君高清、高吉、上坂信光を尾張へと追い出した。
その後、浅見貞則が専横を極めたためこれを追放した。
こうして江北に勢力を築くが、一方で南近江の守護六角定頼と対立するようになる。また、傀儡扱いに不満を抱いた京極高延が父・高清と和解し、上坂氏をはじめとする反亮政派の国人衆らとともに亮政と対立した。
1534年、亮政は京極父子と和解。
1538年、六角定頼による北近江攻め(太尾山合戦)。
しかし、1541年、再び京極高延が亮政に反旗を翻す。
翌1542年、死去。
(2)浅井久政(1526-1573)
亮政の子。生母は側室・馨庵(近江尼子氏の出身)
長政、政元、政之、岡崎安休、治政、阿久姫、大弐局(六角義実室)、京極マリア(京極高吉室)。
1542年、父の死により家督を継ぐ。
亮政と正室との間に生まれた娘・海津殿の婿・田屋明政が久政の家督相続を承服せず反乱を起こす。
六角氏の攻勢に押され、その配下に入る。嫡男に六角義賢の一字「賢」の字を偏諱を受け、賢政(のちの長政)と名乗らせ、さらに賢政の妻に六角氏家臣の平井定武の娘を娶らせるなど従属の態度を示す。
1560年、六角家の傘下に入る政策を採ったため家臣の不満が集まり、久政を竹生島に追放して隠居を強要。子・長政に家督を譲った。
1573年、織田信長が率いる軍勢が小谷城を攻撃、自刃。
(3)浅井長政(1545-1573)
久政の子。幼名:猿夜叉丸。
子に万福丸、茶々、初、江、万寿丸、円寿丸。
1560年、長政は16歳で軍を率い、六角軍を野良田の戦いで破る。
その直後、父から家督を継ぐ。
1563年、六角氏に観音寺騒動が起こる。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が動くが、軍を反転させて六角軍を撃破した。
1567年頃、信長の妹の市を妻とした。
1570年、織田信長が徳川家康と共に若狭および越前の朝倉方の攻略に乗り出したところ、突如、織田信長を裏切り、織田・徳川軍の背後から軍勢を攻めかからせた。予期せぬ長政の裏切りで窮地に陥った信長だったが、殿を務めた木下秀吉らの働きにより退却には成功した(金ヶ崎の戦い)。
同年、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)。
1573年、織田信長が率いる軍勢が一乗谷城の戦いで朝倉氏を滅ぼした後、小谷城を攻撃、自刃。
(4)浅井輝政(1564-1573)
長政の嫡男。幼名:万福丸(諱はおそらく江戸時代の創作)
【8】浅井氏の一族
(1)浅井宗家
浅井重政(1423-1489)浅井宗家初代当主。
浅井忠政(1451-1520)忠政の子。浅井宗家第2代当主。
浅井直政(1479-1540)忠政の子。浅井宗家第3代当主。
浅井清政( ?-?)忠政の子。
浅井惟安( ?-1573)清政の子。別名:惟政
浅井貞政( ?-?)清政の子。
田屋明政( ?-?)清政の子。
浅井秀信( ?-1544)清政の子。
浅井盛政 (?~?)貞政の子。
浅井吉政 (?~?)盛政の子。
浅井亮親(1519?-1573)秀信の子。
浅井政高(1561-1615)田屋明政の養子。
三好直政(?~?)浅井政高の子。
(2)浅井直種の系
浅井直種()浅井重政の子。
浅井井演()直種の子。横山城主。
浅井井伴()井演の子。
浅井井規(?-1573)井伴の子。
浅井政元(1548-1573)久政の次男。別名:高政
浅井政之(?-1570)久政の三男。別名:政弘
浅井治政(?-?)久政の四男。別名:秀政、大文字屋新十郎
(3)浅井政信の一族
浅井政信(?-1543)浅井直種の子。
浅井政澄(?-1570) 政信の長男。別名:浅井玄蕃允。
浅井政成(?-1570)政信の次男
浅井政連(?-1570)政信の三男
浅井政重(?-1570)政信の四男
浅井政勝(?-1573)政澄の子
【9】浅井氏の家臣
譜代家臣:田辺氏・保多氏・矢野氏・遠藤氏
加えて、京極氏家臣の赤尾氏・赤田氏・海津氏・小山氏・三田村氏・八木氏・布施氏・今井氏・磯野氏・阿閉氏など
海北氏
綱親(1509-1573)浅井三将の一。
友松 (1533-1615) 綱親の子。
赤尾氏(国人領主;赤尾城、湖北四家)
教政(?-?)
清綱(1514-1573)教政の子。浅井三将の一。
清冬(?-?)清経の子。
雨森氏(国人領主;伊香郡・雨森城、湖北四家)
清貞(1514-1573)良広の子。通称:弥兵衛尉。浅井三将の一。
清良(?-1570) 良定の長男。清貞の従兄弟。通称:次右衛門
清次(?-?)良定の次男。通称:藤六
清広(?-?)清次の子。
磯野氏(国人領主;磯野山城、湖北四家)
貞詮()
為員()貞詮の子。
貞吉()貞詮の子。為員の弟。
員吉()伊香郡・佐和山城主。
員宗()磯野員吉の養子
員清()員宗の弟。
員昌 (1523-1590)員宗の子。浅井の四翼。
行信(1550-1582)行信の子。
行尚(?-?)員吉の子。
小堀氏
正房()磯野員宗家臣。坂田郡・小堀城主。
正次()正房の子。
政一(1579-1647)正次の長男。
正行(1583-1615)正次の次男。
井口氏(湖北四家)
経元(?-1531)
経親()経元の長男。
経貞()経元の次男。
遠藤氏
直経 (1531-1570)
宮部氏
継潤(1528-1599) 。
長房(1581-1635) 。
宗治()継潤の甥。
長之()長房の長男。
長邑()長房の次男。
田中氏
重寛()。
重政()
吉政()重政の長男。
清政()重政の次男。
氏次()重政の三男。
吉次()吉政の長男。
吉勝()
吉信()吉政の次男。
康政()吉政の三男。
忠政()吉政の四男。
庸政()吉政の五男。
阿閉氏(国人領主:)
貞義()
貞征(1528-1582)伊香郡・山本山城主
貞大(-1582)貞征の子。
中島氏
直頼()
直親()直頼の子。
大野木氏(国人:坂田郡・大野木城)
秀国()
秀資()秀国の子。
秀俊(?-1573)浅井の四翼。別名:茂俊。
野村氏(国人:)
直定()京極高清家臣。浅井郡・野村城主。
定元()直定の子。浅井の四翼。
直隆()国友城主。
直俊()直隆の子。
赤田氏
備()
栄()備の子
向()
直()
高()
衒()
滋()
輝()
隆()
興()隆の子
姓()興の子
堅()姓の子
田屋氏
明政()高島郡・長法寺城主。政清の子、浅井亮政の養子。
重頼()明政の子。
樋口氏
直房) ??~1574 。
藤堂氏
高虎()
渡辺氏
了) 1562~1640 別名:渡辺勘兵衛。
守) ??~1618 了の子。
多賀氏
常則()近江の国人領主。
脇坂氏
秀勝()
入江氏
小次郎()湖北海賊衆。
渡辺氏
半左衛門()湖北海賊衆。
[一]海北氏
海北綱親(1509頃-1573)
浅井家三代に仕えた重臣で浅井三将の一。軍奉行を務めた。
1573年、小谷城が落城した時に討ち死にした。
[二]赤尾氏
赤尾氏は近江国伊香郡赤尾の土豪・国人領主、守護大名京極氏譜代の家臣。
赤尾清綱(1514-1573)
教政の子。幼名:虎千代。赤尾城主。
子に 清冬ほか。
浅井家三代に仕えた重臣で浅井三将の一。
浅井久政の代、遠藤直経らと共に久政の隠居と長政への家督委譲を計画。
1573年、小谷城の戦いで捕虜となり、信長の目前で切腹した。
赤尾清冬(?-?)
清綱の子。赤尾城主。
子に清正。
父・清綱が捕虜になった際、清綱の忠義に免じて織田信長直々にその子である虎千代を助命したという。
その後は宮部継潤に仕え、因幡国諸磯城代となる。
[三]雨森氏
藤原高藤の末裔、藤原高良の三男良高を祖とする。守護大名京極氏譜代の家臣。
雨森清貞(1514-1573)
通称:弥兵衛尉。伊香郡・雨森城主。
湖北四家。浅井三将の一。
[四]磯野氏
守護大名京極氏譜代の家臣。
磯野員昌(1523~1590)
員宗の子。
子に 行信、政長、小堀正次正室。養子に信澄(織田信勝長男)。
父の死後、叔父・員清が家督を継ぎ、その跡を員昌が継いだ。
大野木国重、野村定元、三田村秀俊らと共に浅井の四翼に数えられる。
姉川の戦いでは、「姉川十一段崩し」という逸話を残す。
1571年、織田軍により小谷城と分断され、佐和山城は孤立し降伏。降伏後、佐和山に代えて近江・高島郡を与えられている。
信長の甥・津田信澄を嗣養子とさせられ、1576年頃、家督を譲渡。
磯野行信(1550-1582)
員昌の庶子。
1582年。本能寺の変では織田信忠を護衛、自害する信忠を見届け、僅かな臣下と共に敗走するが明智軍に見つかり自害。
磯野行尚(?-?)
行信の子。
石田三成に仕える。1600年。関ヶ原の戦いでは三成に最後まで付き従った。
その後は藤堂高虎に仕えた。
[五]井口氏
井口経親
[六]遠藤氏
遠藤直経 (1531-1570)
喜右衛門。
坂田郡須川出身、須川城主。
1568年、『太閤記』では、織田信長が上洛前に浅井長政と対面するため、佐和山城で饗応を受けたとき、信長を暗殺しようとするも失敗。
1570年、大依山砦の戦いで勇戦。姉川の戦いで討ち死した。
『太閤記』では、首実検の最中に信長の暗殺を謀ったという逸話が記されている。
[七]宮部氏
桓武平氏土肥氏の後裔。浅井郡宮部村の豪族。
宮部継潤(1528-1599)
土肥真舜の子、宮部清潤の養子。
子に長房。
湯次神社の僧侶・宮部善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷宮部に戻り、浅井長政の家臣として仕えるようになる。
宮部城主。
1572年、秀吉の調略に応じて与力となる。
1577年、中国攻め。主として秀吉弟の羽柴秀長に従い、但馬国方面の攻略に貢献。
1580年頃、山名氏討伐後に但馬豊岡城主として2万石を与えられる。
1581年、山陰での戦功が認められ、因幡国鳥取城代となる。
本能寺の変後、正式に鳥取城主となり、5万石を領した。
1585年の佐々成政攻め、九州平定では根白坂の戦いなどで活躍。
1590年の小田原征伐にも参陣。同年に嫡子・長房に家督を譲る。
1594年。この時点で知行は8万1,000石に加増されている。
1599年、死去。
[八]阿閉氏
阿閉貞征(1528-1582)
子に貞大。
山本山城主。
1573年、信長に内応。秀吉の与力とされた。
1577年、秀吉の中国攻めの際、阿閉父子は近江に留まり、信長の旗本に組み入れられる。
1578年、信長の面前で相撲を披露。
同年有岡城攻め、1581年の伊賀攻め、1582年甲州征伐にも信長に従って参戦。
1582年、本能寺の変の後、明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を占領した。山崎の戦いでは先鋒部隊を務めるが、敗戦。捕縛され一族全て処刑された。
[九]大野木氏
近江国佐々木氏支流。佐々木高綱の子孫が近江国坂田郡大野木城に居を置いたのが始まり。
大野木秀俊(?-1573)
1570年、野村直隆や三田村国定と共に横山城将として横山城を守る。
1573年、小谷城陥落後、羽柴秀吉を通じて信長に投降するが、許されず裏切者として中村一氏に殺害された。
[十]野村氏
野村直隆
子に直俊。
[十一]藤堂氏
藤堂高虎
[十二]渡辺氏
渡辺了
【10】高島七頭衆
宇多源氏佐々木氏の一族。鎌倉時代に近江他数ヶ国の守護に任じられていた佐々木信綱は、4人の息子に近江を分割し継がせた。このうち、高島郡田中郷を継いだ次男・高信は高島氏を名乗った。やがて朽木氏・永田氏・平井氏・横山氏・田中氏などの分家を輩出、別系の山崎氏を一族に加えは高島七頭衆と呼ばれるようになった。
高島氏
高信
泰信
泰氏
範綱
信顕
高顕
高頼
高泰
高俊(1481 )高島郡・清水山城主。高島七頭衆筆頭職。
頼高()高俊の子。
孝俊()頼高の子。
高賢()孝俊の子。
正氏()高賢の子。
朽木氏
義綱()高島頼綱の子
田中氏
氏綱()高島頼綱の子
頼長()高島郡・田中城主。高島七頭衆。
永田氏
胤信()氏祖。高信の子。
賢家()高島郡・永田城主。高島七頭衆。
季家() 賢家の子。
秀宗()季家の子。
平井氏
師綱
頼氏()高島郡・平井城主。政綱の子。高島七頭衆。
秀名()
昌綱()秀名の子。
宗綱()昌綱の子。
横山氏
頼信()高島頼綱の子
家盛()伊香郡・横山城主。高島七頭衆。高久の子。
山崎氏
【11】織田家支配下の近江
【12】城郭・古戦場・地理
(1)江南
安土城
蒲生郡()
観音寺城
蒲生郡(山城)
八幡山城
蒲生郡()
箕作城
蒲生郡()
日野城
蒲生郡()
音羽城
蒲生郡()
坂本城
滋賀郡(平城)
宇佐山城
滋賀郡()
大津城
滋賀郡(平城)
膳所城
滋賀郡()
水口城(碧水城)
甲賀郡()
水口岡山城(水口古城)
甲賀郡()
望月城
甲賀郡()
(2)江北
小谷城
浅井郡()
長浜城
坂田郡()
佐和山城
坂田郡()
上平寺城
坂田郡()
鎌刃城
坂田郡()
箕浦城
坂田郡()
彦根城
犬上郡()
大溝城
高島郡()
虎御前山城
浅井郡()
尾上城
浅井郡()
三田村城
浅井郡()
丁野山城
浅井郡()
赤尾城
伊香郡()
雨森城
伊香郡()
山本山城
伊香郡()
玄蕃尾城
伊香郡()
横山城
坂田郡()
朝妻城
坂田郡()
東野山城
坂田郡()
肥田城
犬上郡()
高宮城
犬上郡()
目加田城
犬上郡()
河瀬城
犬上郡()
鯰江城
愛知郡()
壺笠山城
蒲生郡()
水茎岡山城
蒲生郡()
佐久良城
蒲生郡()
三雲城
甲賀郡()
和田城
甲賀郡()
永原城
野洲郡()
瀬田城
粟太郡()
新庄城
高島郡()
朽木谷城
高島郡()
田屋城
高島郡()
清水山城
高島郡()