【エッセイ】育児と嘘
育児をしていて、ふとやってくる「困ったなぁ」という瞬間の一つに、子どものなぁぜなぁぜ攻撃があると思う。
「今日、お父さん疲れちゃった」
「なぁぜ?」
「今日は風が強いね」
「どぉして?」
「最近、物騒なニュース多いね」
「なんでぇ?」
何かの話を切り出す時、必ず出てくる「なぁぜ?」は、ちょっとした事実関係の確認から哲学的質問まで、前後の文脈関係なくやって来る。
初めのうちは、ははぁ、これが子どもの成長というやつか、と内心嬉しく思っていたのだが、これが続くとなかなかにしんどい。
特にまともに答えようとすると哲学的になるような質問、例えば「なんで月はキレイなの?」とかいう質問に対しては、なんと答えようか、親が試されているようで実にめんどくさい。
なんでだろうねー。と受け流す術も身にはつけたが、せっかくの子どもの好奇心をつぶすようで、何やら勿体無いと思ってしまい、結局、悩みの沼にズブズブとハマってしまう。
こういう優柔不断な性格が子どもに遺伝しなければいいなと思うが、まぁ私の子だ。無理だろう。とにかく、子どもの「なぁぜなぁぜ」攻撃には、とんと参ってしまう。
そこで、最近、この「なぁぜなぁぜ」攻撃に対する対抗手段として、嘘の話を吹き込むという新しい術を覚えた。
例えば先の「なんで月はキレイなの?」という質問には、「それはお月様にはお母さんみたいにキレイな女性が住んでいて、キラキラ光る織物を作ってるからだよ」と答えるような。
すると、子どもは驚いた顔をする。
目を大きく見開いて、聞くのだ。
「どぉしてお月様に女性がいるの?なんで織物作ってるの?」
さぁて、なんて答えようかな。
竹から生まれてお月様に帰った事にしようかな。
織物は…そうだな…。
なぁんて。
当意即妙が求められるところであり、脳の変な筋肉を使っているような気もするが、これがなかなかゲーム性を感じられて面白い。
元来人間というものは理屈的な説明をされるよりも、ストーリー理解のほうが受け入れ易いと聞いた事がある。
だから、まともな回答を考えるより、テキトーな作り話を考えたほうが楽しいし、子どもの反応も良い。
実際、まともに答えたところでピンと来た顔をする方が珍しい。どうせ子の顔を見るなら、理解したのかあやふやな顔よりも、笑っていて欲しい。
そう言うわけで、私は子どもに嘘をつくようになった。
しかし、嘘をつくというのもなかなかに教養のいることである。いかんせん、私には無から嘘を作り出すほどの技量はない。
何となく知っている物語や知識をそれらしく散りばめて、辻褄だけ合うように喋る必要がある。
それにはインプットもいるし、アウトプットもいる。
幸いこのご時世、インプットには事欠かない。
ちょっとネットを調べれば、あらゆる情報にアクセス出来るし、本だって(お金は別だが)本屋に行けば好きな本を選び放題だ。図書館は返却が面倒なので行かないが。
とりわけ、インプットには昔話というのが子どもに語り聞かせるのに非常に役に立つ。
そもそもそういうものなのだから、そのまま喋ってもよい。テンプレートとして構造だけ真似しても良い。
また「猿の尻尾はなぜ短い」だの「木花咲耶姫と岩永姫の確執で花と人の命は短くなった」だの、昔話や伝説には説明めいたものが多い。
これは子どもの「なぁぜ」に対応するものなんじゃないか。
きっと、私と同じように子どもの質問責めにめんどくさくなった物グサが絵空事を語り聞かせたものが後世に残ってしまったに違いない。
そんなこんなで、暇になると昔話や伝説を調べては、要らぬ知識の私腹を肥やす日々が増えた。
ただし、アウトプットは問題だ。
気を抜いた瞬間にやってくる「なぁぜなぁぜ」攻撃に即妙するだけの瞬発力と創造力がいる。
それで練習のために物語を作る事にした。
なんてことはない嘘の話だ。
練習は子どもに語る必要もないので、好きなように思ったことを書く。
最近知ったこと、見たこと、感じたことから想像を膨らませて自由に書こうと思った。
子どもに聞かせる訳ではないから、私の趣味が全開だ。ホラーや気色の悪い話が多い。
誰に見せるでもなくやっていたので、いい加減で読むに耐えないものばかりだ。
それが最近noteというツールで公開してはどうかと、ふと思った。
書きだめはなく、書いては消していたので、更新頻度もテキトー。
それでも、嘘の練習にはいいような気がする。
スキを貰えたら嬉しいし、モチベーションも上がる。
いいんじゃないか?
誰かの目に止まると嬉しいな。
なぁんて、インターネットの大海の隅っこの方で、ぼんやり思う私なのでした。