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奥行きの批評

 今日は、桜桃忌、太宰治をしのぶ人々が多いことだろう。わたしは「女生徒」が好きだった。制服姿のまさに女生徒だったわたしは近所の本屋さんで太宰治の文庫本を求めた。その本の中の一作品目が「女生徒」だった。学校の自由読書感想文のために選んだ作家だったが、それ以降読み続けることになり、卒業旅行には文学少女の友人と(つまり彼女も女生徒であったが)二人、太宰治を巡る旅を企て「斜陽館」に泊まったことが今でも甘酸っぱいまさにサクランボのような思い出である。わたしの初めての東北体験だった。

 さて、今日は東北人で漫画雑誌編集者で映画脚本家の山崎邦紀さんが、拙著新刊を評してくださり、その返禮として文章を書いてみようと思って書き始めている。お手紙のようなものになると思う。

 拙著の感想を有り難うございました。本を買ってくださったこと、また丁寧に読んでくださったこと、とても嬉しく、お礼を申し上げます。実は投稿が飛び込んできたとき、ちょうど日本で今一番かわいそうな夫婦の遅すぎた立件逮捕のニュースがラジオから流れていました。それを背に耳に読む山崎さんの言葉群は、わたしの内臓あたりにとどいて、頭部が何かで殴られたようになり、意識が一瞬真っ白になりました。

 それは一体なんなのだろう。しばらく考えるような考えないような。初単著であった前著も2011年春の大震災のタイミングに出ましたが、この本もパンデミック騒動の最中の刊行で大変でした。暖かくなっていくと、面識がある読者から少しずつ感想や批評が届きましたが、読むのはどんな内容でもありがたくて、楽しい体験でした。たとえば...、そっと後ろから何かを掛けてくれるような羽織のような言葉だったり、前から何かをしっかり着付けてボタンを一つずつ留めてくれるような言葉だったり、ポケットにハンカチを入れてくれたり、靴を磨いてくれたり、髪にリボンをつけてくれたり。全ては身体の目に見えるところで起こっている現象のようでした。

 さて、山崎さんの言葉は、内視鏡のような何か精密な機械が割合急なスピードで突然入ってくる、内臓を見つめられ触れられるような感覚を覚えて、その異物のような言葉がめまいを起こすような、そんな感じでした。違和感?既視感?身体感覚として響いてくる...。幼少期から、竹のようにまっすぐ伸びて育ちたいじぶんには、いつも魂のほうで破壊したい破滅したい欲望を抑えられないことがあり、その時他者を要求するというよりは、内側から殻を破りたいような、その時にわたしを包んでいるものが一緒に砕け散ってもしょうがない、と小さいながらも冷静な覚悟のある声として鳴っていました。

 幼稚園の頃から人と同じことをするのに強い抵抗があって、学校を抜け出すような子供でしたが、「パジャマを着て園に行きたい」というわがまま(本文序論テーマ)は何て可愛いのだろう、幼稚園に行ってくれるのだから、お母さん、いいじゃないですか、と、最初に目の前の他者(インタビューに来られた雑誌編集者)から投げかけられた時、そう言いたかった。中国では、この疫病の世界的感染拡大の直前、パジャマ姿で外に出る市民を逮捕するという法律ができた、とインターネットで読んだ。どこかはるか高く遠いところにあるカメラがパジャマ姿の中国人を一度捉えると、警察がわいたように出てきてパジャマを取り締まりにくる。監視型精密機器よ、人ではなくパジャマを捕まえて!文明人であるためには、着るものに気を配らなければならない。

 何を着ていてもいいじゃないか、着るものくらい自由にさせてほしい、服でならば自由を表現できる、着ていれば(裸でなければ)上等なのだ。そもそもわたしたちには、脱げないものがあるのではないか、そちらの方が重要な問題なんじゃないか。着なければならない、ではなくて、脱がねばならない。そんな服がきっとある。人には人が脱げないのだけれど、人という衣装を着ていると考えれば、そこからスタートすれば、問いが起こって、議論もできる。服と体の関係、着ることと脱ぐことの表現の可能性、<わたし>とのつきあい、いのちの問題。

 わたしを白として他者を黒とする、そのこころは、円の半分のわたしである。その半分のわたしは、黒でもあるわたしを包む白でもある他者によって成っている、別の半分の円と接触している。半円は、上弦や下弦の月のように直線に切られていなくてもいい。歪であってもいいけれど、同じ質量でお互いを照らしているような関係である。それが、絶対矛盾的自己同一、そのような意味で用いている。わたしであり他者である、お互いを照らして、お互いの<わたし>が立ち現れる。白いわたし(内)は黒い服(外)によってしか、存在を認めれられない。第一詩集に所収されているのですが、「みとめられない身体」というタイトルで20代の頃書いていたシリーズ詩を思い出しました。服も、わたしの体があって初めて、服として存在が立ち現われる。「着」の旧漢字は「著」ですが、この漢字は、現在でも、書物を「著」す、などのように使用されています。体に服を着ることは、言葉(意味)が書かれて一つの体が著わされる。そのようなイメージです。

 人しか服を着ない、人間は衣服を着る動物である、という前著の「衣服行為によって上りつめた人間の特権的ポジション」から、本著では、人間を降ろしていくような作業として研究論文は存在しています。わたしたちは、人という服を着ているに過ぎない、「人」はもしかしたら着させられているのかもしれない「不自然な行為」かもしれないけれど、着脱の行為はあくまでも<わたし>が動作主である、そこに可能性を見出したい。着るから、脱ぐことも志向・思考できる。

 長年日記を書く習慣がありましたが、今年の旧正月の節分のあたりから、詩しか書けなくなりました。おかげで毎日詩を書くことができるようになりました。誰のために書いているのかな。言葉であらわされる現実の病みの進行が深刻で、詩の世界にしか生きられないのか。闇ならば描きたいとも思いますが、詩的な状況を超えている。この文明は現在明るくなり過ぎて目も開けられないくらいの闇である。早朝の、人のいない、荒れた原生林の中に一人立ち、まだ薄明るい光の中、鳥の声や草花の香りに包まれて、<わたし>や<?>から解き放たれて「からだ」を置いてみると、「こころ」がどんどん透明になって、ただ涙だけが流れてくるのでした。

 未整理で編集すべきところが多々ありますが、忘備録のように書いています。帰れない、戻れないところがあり、世界は大きく変わっていくように思います。究極的に言葉を物質として消化しながら共存していく人と、言葉を抽象や科学として捉えて身から離していく人と、二種類の服に分かれていくような気がします。わたしは前者で、薄桃色の透明な羽衣で唄い誘いたいです。また書き直しや書き足しに戻ってきます。

ありがとうございました。

 追記:本の身体という意味で、拙著新刊の装幀を担当してくださったミルキィ・イソベさんが仕事を全て終えられた後に、「身体に関してのとらえ方というか興味の範疇が親しい」と言われていました。身体感覚の共有をブックデザイナーとできたことで、わたしは報われたように思っていました。山崎さんの、評そのものは、わたしの内面の奥の隅々を描いているようで、指や筆のような感覚をおぼえた不思議な言葉群でした。

 








 

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