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不倫は文化だ!?私の人生を変えたアメリカ留学と「biology 100」。人間の特性とは。
One spicies, One niche
struggle for the reproductive success
natural selection
進化とは環境に適応した結果生まれる。『鍵』となるのは、遺伝子を次世代に残せるか否かだ。
生物は「不倫」をしないようにはできていない。だからといって、人間は「本能のままに生きる猿」ではない。
生物としての特性を知り、『人』としてのふるまいを。
私の人生を大きく変えた講義。それが「Biology 100」:生物のイントロダクションコースでした。「100」に特別な意味はなく、私の出身大学ではコースが進むにつれて数字が大きくなります。100は一番初めに履修すべきコースです。
自民党がモヤウィンなるキャラクターを用いて、進化論的に改憲の必要性を説いて炎上しました。この私の投稿も読む人によっては批判対象となるかもしれません。それでもこれが現時点での、そしてここ20年の私の認識であるため、そのまま記載してみようと思います。
私は大学受験で大失敗をしました。その原因は小学校以前にさかのぼります。私は元々、理科や社会に興味がもてず、暗記も苦手という認識のまま、ずるずると大学受験を迎えてしまいました。今にして思えば、「覚える気がなかった」と感じますが、当時からすれば覚えられる気が全くしませんでした。
大学受験に失敗し、浪人生活も大学入学に結びつかず、家にも居づらくなった私は高卒で働き始めました。そんな時にバブルがはじけ、経済も悪化し、「このまま40代をむかえ、首でもきられたら何も残らない」と強い恐怖に襲われたのを記憶しています。
そもそも日本の大学受験で失敗し、働いて数年たったその時点で、再度日本での大学受験に勝機は見出せませんでした。一年に数回大阪で開かれていた、日本最大の留学斡旋所(某留学研究所)の説明会に出席し、「これだ!」と半ば強引に自分を納得させ、アメリカ留学を決意しました。
特に具体的な目的も、戦略もあったわけではありません。当時営業職についていましたが、同僚の中に鬱的な症状になる人間も少なくなく、どうせなら日本よりアメリカで進んでいると思われる学問を学びたい。そんな単純な発想で「心理学専攻」を決めました。
「なんとなくアメリカ、なんとなく心理学」
最終的に応援をしてくれた親を除くと、その他の親戚からは「また、何ができるわけでもないのに海外なんか選んで」、「わざわざ高い金を払って。日本じゃできないんかね」「日本じゃダメだから、海外に逃げんのか」と辛辣な言葉をダイレクトに受けたのを記憶しています。
最終的に、母校で生物を学んだから、学士編入を経て医師になれました。そこで当時はよくこう聞かれました。「アメリカに留学したから合格できたんですか?」「海外留学はした方がいいんですか?」と。
これは私にとっては「Yes」です。しかしながら、日本でのそれまでの経験がなければ、あそこまでアメリカで勉強に打ち込めたかは分かりません。当時は睡眠時間1.5時間程度で、使える時間はなるべく勉強にあてていました。アメリカで学べることは、意識がしっかりあれば日本国内でも学べることがほとんどです。わざわざ金額や時間をかけなくても、もっと少ない金額と時間で、日本で同じことを学べる人もいると思います。
しかしながら、人間(特に私)というのは怠惰な生き物です。母国語が通じるし、そこまで無理しなくてもなんとなくやっていけると思うと、なかなかがんばれないものです。日本での失敗、経済悪化による「危機感」がアメリカ留学と相まって、私に大きな人生経験を与えてくれました。私に関していえば「日本ではない異国」という環境が当時、非常にフィットしてくれました。
また、私はそれまで自分自身に自信もなければ、アイデンティティもありませんでした。何がすぐれているわけでもないし、特別優秀でもないし、「これが私です!」というものがありませんでした。
ここでもまた、アメリカでの生活が大きな意味を持ちました。「日本国内での当たり前」は国外では当たり前ではありません。
宗教も違えば、価値観も違う。人種も異なれば、肌の色も異なります。留学中は意識していませんでしたが、帰国し、医学部学士編入試験のための予備校(河合塾ライセンススクール:KALS)に通い、それを実感できました。
私は、アメリカで最初に受講した「心理学100」のコースで、名前を呼ばれたことにも気づきませんでした。私の大学では、授業に出席しているかどうかも、成績に大きな影響を与えます。授業が終わってから、教授に会いに行き、身ぶり手ぶりをまじえながら、「私はそこにいたけど、名前をよばれたのに気付かなかった」と説明しましたが、小さな大学でもイントロダクションコースは100人程度の生徒がいるため、「疑うわけじゃないけど、いたかどうかわからないし、それを認めると他の生徒にフェアじゃなくなる」との理由で出席にはしてもらえませんでした。
危機感を覚えた私は、その学期は心理学をとらず、微分積分、英語100(アメリカ人、留学生関係なく、入学生全員がとるライティング、スピーキングのコース)、版画(プリントメイキング)、保健体育のようなコースの4つを選びました。
そして、留学中を通して私のルールとしたのが、最前列のど真ん中に座ることです。日本もアメリカも、大概、最前列というのは空いていることが多いものです。これだと、「英語の不自由な日本人」は目立つので、「授業にいなかった」ことには少なくともなりません。
これは医学部学士編入試験のために入校したKALSでも活かされました。私は12月末に帰国し、KALSの入学を決めたのが2月後半でしたが、すでにコースが始まり2カ月程度が経過していました。
初めて授業に参加した時は茫然としました。大教室が2つぐらいくっついたクラスには100人以上人がいたでしょうか。空いていて座りやすいのは後ろの方のみ(あとは最前列)。モニターがいくつかぶらさげられているんですが、それすら見づらい。うーん、しかもよく聞こえない。
そして、次の授業からとった作戦がそう。
「最前列に座る」
でした。
初回の時にモニターごしに最前列のど真ん中は人がおらず、両サイドの最前列にいる人に講師の先生が話しかけられていたのですが、どうやら薬剤師の方だということを認識していました。
最前列にいたら、話しかけられるかもしれない。質問されて答えられなかったら恥ずかしい。
そんなことはアメリカで経験済みです。少なくとも日本語は理解できます。数年前は、何について話されているかもわからない授業を最前列で、「英語がろくに話せない、相手にしたくないアジア人」として周囲の生徒に認識されながらやり過ごしてきたのです。
専門用語がたとえわからなくても、母国語が使えます。恥なんてものはかき捨てです。迷わず最前列に座りました。当時池袋校の授業はビデオ講座のために録画されていたのですが、後日できた友人から、「途中から最前列のど真ん中にいつも黒い服を着た怪しい人が座るようになった」と教えてもらえました。
最前列効果は捨てたものではありません。講師の先生によるカウンセリングを予約できるんですが、その際に「急に前に来るヤツなんかめったにいないから、まだ初めて見かけてからちょっとしかたってないのに、ちょっとっていう感じがしないな。面白いやつだねー」といってもらい、その後何度も食事につれていっていただきました。お忙しいので、最近はごくたまにですが、それでも交流があり、去年も焼肉をごちそうになりました。
こんな行動は以前の私ではあり得ませんでした。でも、人間(特に私)というのは弱い者で、学士編入で入学して以降、私の特等席は講義室の最後列に戻ってしまいました。卒業してから、何で「最前列のど真ん中」戦法を継続しなかったんだろうと後悔する日々です。
あなたの成績が伸び悩んでおり、講義を後ろの方で聞くタイプなら、「最前列のど真ん中」戦法を使ってみてください。精神的なハードルは高いですが、物理的なハードルは高くありません。今は大恥かいても、未来は大きく変わるかもしれません。少なくとも私の人生を劇的に変えてくれました。
うわ! バイオ100のこと書こうとしてたのに、無駄話でここまで来てしまった。
長々書いても誰も読んでくれないから、最近短めにしてたのに。
まあ、いーか。もしここまで読んでくださっているレアな方がいらっしゃったらありがとうございます!
ここからは、あなたのためだけに書きます!
さて、心理学で専攻を始めたんですが、うちの大学は小さいので、心理学のコース内容がしょぼかったんです。当時の私は漠然と「アメリカ=心理学が世界で一番進んでいる」みたいな印象があったんですが、そんなはずもありません。まあ、アイビーリーグとかになると違うんでしょうが、うちの大学のような小さな大学でそんなすごい心理学のコースが提供されるはずもありません。
そのため、神経伝達物質などの、器質的な要因も勉強したくて生物を学んでみようかと考えるようになりました。そして最初は生物を専攻に組み込もうなどと考えることなく「生物100」をとってみました。
これが、まーハマりました。まず「キャンベルの生物学」。これは私の人生を変えたバイブルです。上記のものとは版が違って、英語版でしたが、生物ってこんなに面白いのかと思いました。
1000ページを超えるほとんど百科事典みたいな本は、普通読む気があせるんですが、一度読み慣れてしまうと違った面に気づくことができます。
もちろん本にもよるんですが、アメリカの大学のイントロダクションにも使われるような分厚い本は
太い=説明が豊富、図説も豊富=他の参考書が不要、わかりやすい
と「急がば回れ」的な良さがあったりします。
変にエッセンスだけで、参考書が必要なものより、よっぽどわかりやすく、読み進める時間もかからなかったりします。しかも分からなくなったら前にもどると説明されているので、変にどの参考書を買うかなどの悩みがなくなったりします。
さて、「キャンベル生物学」「種の起源」「利己的な遺伝子」に共通する話題。
それは「生物にとっても最重要課題は、遺伝情報を次世代に伝えること。つまり生殖活動における成功をいかに達成させるか」にあります。
人間だったら男性、女性、動物だったら雄、雌がありますが、生物によっては性別がなかったり、魚の中には生涯の中で、性別が変わるものも存在します。
人間に関していえば、「性差別」が問題となりますが、もちろん差別はいけませんが、「差異」が存在するのは紛れもない事実です。男性の精巣が精子をつくり、女性の卵巣は卵子をつくります。
子の世話を一切せず、特定のパートナーをつくらず、生殖活動における成功を最大化させる雄がいれば、その子を通じて遺伝子は次世代に伝わります。そうなれば、同じような生殖行動を行う雄が増え続けることになります。人間以外の生物では「倫理」によって雄が干されることは期待しづらいのです。
魚もそうですが、オスは卵子に精子をかけるだけです。卵のことは放っておいて、次のメスの卵にむかえば生殖活動における成功率は向上します。一方、雌は雄に比べると卵子をつくるエネルギーがより多く必要です。しかも、先にいなくなりやすい雄と違い、自分が卵の世話をしなければ誰も卵の世話をする人がいなくなることを否が応でもでも認識させられます。つまり、生物学的に、オスは子育てに「無責任になりがち」であることになります。
さて、メスもただオスのいいなりになる必要はありません。メスにも選ぶ権利があります。生殖活動における成功をおさめるために、子育てに協力的なオスを選ぶという選択肢もでてきます。特に人間ならなおさらです。
ここに「利己的な遺伝子」のすごさが現れます。
他人のためにいつでも命を投げ出し、常に自分よりも他人の利益を第一に考える「聖人」男性がいるとします。そういう人は、常に他人の利益を最優先にするため、自分の生殖活動における成功を達成しづらくなってしまいます。結果としてその「素晴らしい」遺伝子は残りづらくなってしまいます。一方、外見、頭脳、身体能力が優れ、浮気をしまくる男性がいるとします。そういう「魅力的」な男性の遺伝子は、次世代に伝えられる可能性が高くなります。結果として、そういう性質の男性はいなくなりにくいのです。
ここで女性の出番です。女性は「魅力的だけど浮気性の男性」を選ばないという選択肢を選ぶことができます。しかしながら価値観は多様です。「魅力的だけど浮気性。でも財力にすぐれて生活には支障を来さない」なら「浮気は気にしない」という女性も存在するでしょう。
「浮気性」に限ったことではなく、「優しさ」「攻撃性」「行動の正しさ」といった性格上の特性も同様のことが言えます。
つねに奪いあい、強い者が弱い者を支配し、弱い者は奇襲をかけることで強い者を倒す。こんなことでは安心して生活を送ることができません。強い者も、更に強いものに支配されてしまうかもしれませんし、最も強い者も奇襲によって命を脅かされるかもしれません。
法や秩序を守るということは、「私達一人一人が争いを好まず、常に正しいことを行える聖人である」ことを示すものではなく、「私達一人一人がルールを守ることで、お互いの生活の安定を保証し合い、日々の暮らしを安心して続けられる」ための適応的戦略といってよいでしょう。
他人のために命を差し出す行為も、それによって自分の親や、兄弟、家族に対する信頼を強化し、結果として家族を通じて自分の遺伝情報の一部を次世代に伝えられるからだと説明されています。
そう考えると、「魔が差す」「人は見かけによらない」といった側面が説明つきます。私たちは生来「倫理・道徳的に正しい存在」なのではなく、「倫理・道徳的に正しく生きる」ことで社会における自分の立場を確立しているのです。
だからといって、「浮気をしてもいいし」「暴力をふるってもいい」といっているのではありません。
「不倫は文化」なのではなく、「不倫は許されない」というのが文化なのです。
私達は「不倫をしない」ようにや「他人を傷つけない」ようには絶対的なプログラムをされているわけではないのです。私達は人としての「理性」によって「正しくある」ことを選択しているのです。
ドーキンス博士が提唱した「ミーム」という言葉があります。
私達人類は、この数千年で遺伝子的には大きな進化は遂げていません。しかしながら、先人の知識や技術を受け取ることで、知的・精神的に発展を遂げることが可能です。
ダーウィンの「進化論」の考え方の中で重要なことの一つは「自然淘汰」です。
環境に適応できない種は絶滅してしまいます。たまたま環境に適応できた種が存続することができます。
陸地がなくなって陸上生活が送れなくなった時に、人間の中に急にエラ呼吸ができる人間が現れたり、急に翼が生えて空をとべる人間が現れるわけではありません。
ただしミームによって、陸上生活が送れなくなるとわかれば船をつくったり、飛行艇を作って備えることは可能です。
自民党の改憲の必要性に「進化論」をもち出すのが「理屈にあっているかどうか」は個人的には大きな問題ではないと考えます。確かに、日々変化する社会状況に応じて憲法を改正していくことは必要だと考えます。ただし問題は、現行の憲法を「よりよい憲法に改正できるかどうか」にあるのだと思います。判断を誤ると「憲法改悪」につながりかねません。一連の流れをみて「改正」ができるとは私には思えないのです。