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ep18 うつくしい檻

何もかもあの町に、置いてきてしまったような気がする。今でもずっと。

マンションのバルコニーからは、向かいのマンション越しに武蔵野の森が見える。その向こうに、あるはずもない海を探している。電気を消した真っ暗な部屋で。ハイボールのグラスを持って、椅子に座ったまま。

数日緊張感のあった妻との関係が、今朝からようやくほぐれてきた。長男を迎えに部屋を出るときも、聞こえてきたのは「いってらっしゃい」という明るい声だった。冬の朝。よく晴れた日。抜けるような空の色がする声だ。

きっかけは姉からの電話だった。数年前から一人暮らしをしている母が少しあやしいかもしれない。まだ大丈夫だけど施設に入ることになったら、お金が足りない。

そんな話に二つ返事で「うちが出すよ」と言ってしまったのがまずかった。お金を出す?うちだって無いのに?お姉さんのところも共働きだよね?弟もいるよね?どうして?どのくらい?

育ててくれた親のために金を出すのにどうしてそんな言われ方をしなければいけないのかとムッとして生返事をしてしまったのが、余計よく無かった。妻はたたんでいた洗濯物を持って、ガチンとリビングの扉を締めた。

長男はそういう夫婦の空気に敏感な方で、今週はつとめていい子に振る舞ってくれていた。そんな殊勝な振る舞いをさせてしまうのも申し訳なくて意を決して謝ったのは昨晩、子どもたちが寝静まった後のことだ。

「相談も無しにごめん、俺が悪かった。」

うん。わかったならいい。出す出さないの話では無い。勝手に無責任なことを言うのがいけない。

なんの反論の余地も無かった。

海の無い町にはかわりに武蔵野の森と、茫漠と広がるニュータウンと、アウトレットのフードコートがある。黙ってうどんをすする息子はサッカーの練習着のままだ。3年生。まだまだ遊びみたいなサッカーだけど、自分が3年生の時と比べるとリフティングもドリブルも、ずいぶん巧い。

水のない海に漂うような暮らしだ。タイムマシーンがあるのなら、張り切って上京してきた20年前の僕に会いに行って、慰めてあげたい。片道1時間半の通勤にも、気のいい同僚たちにも、毅然とした妻にも、のんびりとした子どもたちにも、何一つ不満は無い。あるとしたら自分。そうしてあと30年続く暮らしに浸かりきって心地よいと感じている自分への不満だ。

長崎へ、海の見えるあの街へ、胸を張って帰る。東京と地元を行き来して、世界と闘う事業を作る。「やっぱお前はすごいな」と誰もがうなる、そんな仕事を。

かつて僕が夢見たそんな姿はどこにもない。ここ数年は年に2回の帰省の費用ももったいないから、年に一度、盆正月をずらして帰るだけ。父とは結局ギクシャクした関係のまま、今生では会えなくなってしまった。

大切なものを全部あの町に置いてきてしまった。夕方の公園で父とキャッチボールをしたこと。公園裏の秘密基地で日が暮れるまで遊んだ日のこと。私立に行った女の子とスーパーの前で夜中に話したこと。僕たち以外誰もいない帰りのバスの最後尾で、腹を抱えて笑った日のこと。取り返すことのできない何かを求めることは、水の無い海を泳ぐのによく似ている。体は重くて、擦り傷だらけで、少しも前に進まない。

「あ」

長男が声を出して、隣の席を見た。父と子の二人連れが空いた席にちょうど腰をおろしたところだった。

「おう」

子どもたちが挨拶を交わした。長男のクラスメイトだった。

「ちょっと遊んでいい?」

今日は特に予定も無い。いいよと言うと、長男は飛ぶように友達と二人で駆けていった。

「あの」

しばらくすると、友達の父親とおぼしき人が話しかけてきた。

「松澤と言います。越してきたばかりで。よろしくお願いします。」
「ああ、そうですか。山下です。こちらこそ。」

少し話したそうなそぶりだったので、水を向けてみることにした。

「いつ頃こちらにいらっしゃったんですか?」
「先月、11月に来たばかりで。」

家はどのへん?ああ、あのあたり、近いですね。以前はどこに?お仕事はどちらで?はあ、通勤、いいですね、それなら楽で。

フードコートの雑音に溶け出していく、明日には忘れているだろう話。黒いキャップの下の眼はにっこりと微笑んでいて、無精髭も丸顔と相まって、不思議な可愛げのある人だ。

「田舎者なもんで、アウトレットが家の近くにあるなんてびっくりしちゃうんです。」
「どちらですか?」
「鳥取です。」
「ああ、そうなんですね、僕も田舎です。」
「そうなんですか!どちらですか?」
「長崎です。」
「ああ、長崎。」

それ以上話は広がらなかった。東京や大阪の人は案外「修学旅行で行ったことがある」という話になったりもするけど、田舎の人は修学旅行で都会に行くから、鳥取の人が長崎に来る機会は多分、あんまり無い。

どことなく気まずくなって、「あ、子どもたちどこかな。ちょっと探しに生きますか。」と一緒に席を立った。外の遊び場にいくと、案の定子どもたちはそこで走り回っていた。

長男と友達はお互いを蹴りあったり、叩きあったり、声をあげて笑っていた。鬼ごっこでもしているんだろうか。とにかく楽しそうだ。お昼を過ぎて、冬の日は黄色く変わりはじめている。小綺麗なアウトレットの遊び場はそれほど広くもなくて子供もたくさんいたけれど、ぶつからないよう器用に遊んでいる。

「あ、すごい。仲良く遊んでいる。ありがとうございます。」
「いえいえ、僕は何も。」

言葉の通り、別に僕は何もしていない。

「年末は帰省されるんですか?」
「いえ、飛行機代もかかりますから。」

そう言って松澤さんはペコペコしていた。素直な人だ。なんとなく、仲良くなれるような気もした。

そろそろ帰るぞ。そうやって長男を呼び止めると、この寒い中汗をかいて頬を赤くしている。

「えー、もう帰るの!?」

長男の意外なほどぶっきらぼうな声に驚いた。妻にきつく言われるので、長男は普段家ではほとんど乱暴な話し方はしない。そういうものかなと思っていたけど、なんだ、そんな乱暴な声も出せるのかと、少し嬉しくなった。その声は多分、僕が公園の裏の秘密基地で立ち小便をしていた頃の声に似ていた。

結局もう20分ほど子どもたちは一緒に遊んで、分かれ道まで一緒に帰った。さっさと前を歩く子どもたちの背中を見て、僕たちも並んで歩いた。

「最初はちょっと都心に遠いなと思ったんですけど、いい街ですよね。」
「ええ、そうですね。」

確かに、都心から少し離れていることをのぞけば、暮らしのいい街だった。多摩ニュータウンの計画の中でも後期にあたるこの町は、それまでのノウハウを十分に活かして、商業施設も公園も高度に計画的に整備されている。歩行者道と自動車道はきれいにわかれていて、駅から自宅までの道に信号は一つしかない。駅直結のアウトレットパークと大学は、私鉄の肝いりの都市計画。何もかもが徒歩圏内で完結する町は、うつくしい檻のようだ。

「本当はね、海の近くに住みたかったんですけどね。」
「それ、めちゃくちゃわかります!」

松澤さんはこちらを向いて声を張った。彼もやっぱり、故郷の海に何かを置いてきたのかもしれない。

武蔵野の森。水のない海に拵えられたうつくしい檻を僕たちは泳ぐ。みんなどこかをさまよっている。あと20年か30年、僕たちが暮らす予定のこの町はでも、肩をぶつけあって歩く小さな彼らのふるさとになる。フラフラ歩く彼らの姿に、30年前の僕がフラッシュバックする。真っ直ぐな長い坂。目を閉じると、キラキラと輝く海のような鳴海ニュータウンの風景が浮かんでくる。

でも父にとってあの町は、同じようなうつくしい檻だったかもしれない。最後まで僕のいい加減な性格に眉を潜めていた父は、うつくしい檻の鉄格子の隙間から、僕に何を渡そうとしたんだろう。心臓の奥にぎゅっとひっかかるしこりのような何かを、僕はまだうまく言葉することができない。

お前の番だ。間違うなよ。気をつけろよ。父の言葉が耳の奥でこだまする。僕は前を歩く彼に、何を渡すことができるだろう。間に合うといい。彼が、あるいは僕が、必死に手を伸ばしても届かない場所にいってしまう前に。

「わかります!」そんな言葉に感動して泣きそうなのがばれないように、顔をそむけて遠くを見た。きらきらと輝く武蔵野の森は、いつか見た海に似ていた。

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