丸っと
他者や社会や家庭などの
自分の外を否定しても幸せにはなれなかったんですね。
お金というのも
自分の外に身に付けるもの。
僕は外にあるお金を否定して受け容れられず、
不幸なままの生活を続けております。
それで今までの僕は
『自分の外も愛そう。虐待もお金も』
と顔晴ってきたのですが、それは難しく
やはり幸せには至れませんでした。
最近の僕は
『虐待やお金を愛せない自分を愛そう』
と愛を向ける方向を世を嫌う僕自身に変えております。
それでね🌳
天の愛や志(男性性・三)は
人が人の意志で現実化・具現化(五)をする選択も
人が人の意志で現実化・具現化(五)をしない選択も、人の自由意志に委ねられます。
人が現実化・具現化(五)したものを
地が受容(女性性・八)します。
人が現実化・具現化(五)しなかった世界も
地が受容(八)します。
受容を享受として感謝する選択も
既にある世界(もの)を受け取り拒否する選択も
人(五)がすることになります。
人とはクリエーターになります。
そしてその人がイマジネーションも創り出します。
ですから人が創造主というのはその通りだと僕は思っております。
そしてかつての僕は自分でクリエートしたものを自分で否定したり壊したりしていたんですね。
このような在り方というのはどこかアーティストに近しいように思ったんです。
創り出した作品を
『納得いかない』と叩き壊すようなイメージが浮かびました。
しかしながら
たとえば今ある資本主義社会ですとかお金そのものなどは過去の人たちが創造した作品と言えるように思ったのです。
だとしましたら
僕は他者の作品群にケチを付けて叩き壊しているようなものなのですね。
結果として何が起きるかというと
【僕自身の作品も受け容れられない】
という現象が起きるのです。
僕はそこに幸せを感じませんでしたから、
また視点を変えてみました。
僕は過去を思う時、
天を思うのに近い感覺になって
意識的には上を見上げて過去を思っていたのです。
それで意識的に過去を下に見下げてみました。
まるで天界から下界を見下ろすように過去の自分が見えました。
『なぜ分からぬ。なぜ分からぬか』
と山々を飛び回る過去の自分です。
僕は彼を上から見ながら
『愛ですよ』
と瞬時に分かったのです。
正論をどれだけ主張しても周囲に受け容れられない体験を今生の僕はしています。
この体験にも『愛が足りなかった』と僕自身では振り返っているのですね。
人というのは
欠点があろうと罪であろうと
愛があれば赦せるところがあるのです。
『罪を犯して良い訳ない』
という正論を僕が主張したところで
たとえば
日本で買春買春していても
そこに愛が垣間見られる時、人は罪をも愛を持って見るのです。
そして愛というのは
理論や理屈の次元を超えておりますので、
正論は愛に負けるのです。
またね。
罪を犯しているものに対して愛を垣間見られるかどうかは、これも理論や理屈ではありません。
ですから
罪を犯したものが完全犯罪のような立派な言い訳を述べたとしても、その発言に愛が無ければ受け容れられません。
また愛を垣間見る方にも愛を感じ取る感覺が必要となります。
それでね🍀
上に見上げていた過去を
真逆の下に見下ろしてみて、
もう一つ思いましたのが、
【過去とは上でもあり下でもあり今ここに】
という感覺です。
過去の作品を今の僕が壊すなら
過去と今とは同時に今に存在しております。
であれば
世界とは過去も今も未來も今ここに在るということです。
そしてそのことに上も下もないのですね。
となれば、
外界という横とは
今ここの僕自身になると思ったんですね。
そしてその自分というのが核となります。
それでね☺️
今ここに愛が在る時、幸せになるんですね。
今ここに愛が無い時、不幸せになるんですね。
【愛・幸・不幸】の三つ巴を僕は感じたのです。
アーティストは創り出したものに責任を負います。
その責任の元に作品を壊せば、それは壊したアーティストの責任を負うことに。
過去の自分が創った作品を
愛するのか愛さないのか
という自由意志の責任が作者には在るのですね。
世を丸ごと愛するのに
理屈は要らないのです。
《愛する》
というのと
・愛を論じる
・愛を紐解く
というのは違うようです。
そして
愛を感じ取れればこそ
愛を受け取れるのですね。
いつもお読み戴き
ありがとうございます☺️
祭統 白宇
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