本棚はダンボール Vol.5 『せいいっぱいの悪口』/堀静香
私と、この著者の方、失礼かもしれないけれど、似ていると思った。
どこまでも自意識が過剰でナルシストで、寂しがり屋で自分勝手。自己中心的。それも自覚していて、その上で自分がとても優しい人間だと思い込みたくて、みんなにやさしいと思ってほしくて、好かれたくて必死。自分が特別だと思っている。
でも、たぶん、きっとだれもがどこかで自分が一番特別な人間だと思っている。
だって自分の世界に『私』はわたししかいない。それが特別でなくてなにを特別と呼ぶか。
それを本にして名前を出して、世にさらけ出すのは、とても勇気がいることだと思うし、やりたいことをやりたいとして、きちんと行動できる人はすごいと思う。
最近、関わる人関わるひとみんなに感じることがある。
「ああ、このひと、私と似ている。」
ほとんど全員に、思う。
けれど細やかなところで、節々で、それを感じる頻度や強度はさまざまだけれども、
「でもやっぱりこの人はこの人で、わたしはわたしだ。違う人間だ。」
とも思う。
けれども、この著者にはいっとう似ていると感じた。文章の書き方も、本をよく読んでいて、こういう表現に憧れて、こういう文章になるのだろうなというのがよく分かる。読みながら、内容にも文章にも、わかる、わかるとずっと思った。
(分かった気になっているだけかもしれないけれど)分かってしまうからなんとなく、共感性羞恥みたいなものも感じた。
だから書きたいことというか、感想ならばたくさんたくさん、それこそいくらでもあるのだけれど、私が気付かされたことについて書こうと思う。
私は、2ヶ月先の家族旅行の計画を立てることが怖かった。怖いというか、言いしれぬ不安に襲われる。予定を立てると、現在に対して、「こんなことをしている場合じゃない」という焦燥感と不安、そして何かの恐怖が襲ってくるのだ。
私にはそれが何なのか分かっていなかった。
けれど、これを読んで、とてもしっくりきた。
ああ、これは、旅行に行く前に死んでしまったら私は絶対に死ぬ間際に旅行に行けなかったことを悔やむ、という恐怖だ。
私は死ぬこと自体はたいしてこわくない。死ぬときに苦しかったり、痛いのはものすごく嫌だけれども、死それ自体に対する恐怖はあまりない。
親より先に死んで悲しませるようなことはしたくないから、死にたくないけれど。
家族旅行自体に対しては、あまりいい思い出がない。父も母も好きだけれど、母は自由奔放なところがあり、父は言いたいことを言わず我慢する。そのくせ、自分のやりたいことが叶わないと不機嫌になるため、家族旅行が地獄の空気に変わりひたすら機嫌取りをしながら耐えるだけの時間になることはもう定番の流れである。
それでも、私は家族旅行に行こうよ、と言う。だって死ぬときに家族に対してできることすべてやっていなかったら、私は手遅れになってから後悔するはずだから。娘と旅行に行けるなんて、幸せだろう!と傲慢をかませるくらいには、愛してもらってきた自信がある。死ぬかもしれないから今、計画を立てるけれども、死ぬかもしれないから未来の計画が怖い。
だからどんな約束でも、交わした瞬間はうれしくて、待つ間はおそろしくて、近づいてくると楽しみと不安で、当日には安心する。約束ひとつに、いつも命がけだ。
私は、「失ってから気づく」とか、「後悔」とか、そういうのが本当に大嫌いだ。
そんなの、自分の怠惰の結果じゃないか。自分の怠惰で、あとすこしでも幸せにできるはずだった他人のその「ちょっとの幸せ」まで奪うなんて、許されないことだと思う。自分の幸せだってそう。
だから、失う前に、すべてやり尽くしたい。あなたを喜ばせるために、(エゴだとしても)できることのすべてを。私を好きでいてくれたり、私を愛してくれた人に、返しても返しきれないけれども、返せる範囲のすべてを返せるうちに、どちらかが死ぬ前に、返したい。
友達にも、本当は何もなくてもいつも何かプレゼントしたいのだ。さすがに向こうの重荷になってしまいそうだからやらないけれど。
2ヶ月後死ぬかもしれないということは明日死ぬかもしれないということで、つまりは今日死ぬかもしれないのだ。だから、手遅れにならないうちに、思い立ったときに、やっておかなければ後悔したって自分の怠惰だ。
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