短編小説:二分の一の景色
「月は綺麗でしょう?」
盲目の少女は言う。何故か少し得意げなのは、僕の目に映るこの夜景が、三日ほど前まで彼女のものだったからだろうか。
「……」
僕は返事をする代わりに、彼女の右肩をとんと一度叩く。肯定の意だ。
「今日は満月だっけ」
彼女の疑問に、少し悩んだ後で右肩を二度叩いて返答する。否定の意。多分、満月ならもっとまるくて、綺麗なはずだ。見たことはないが、彼女の口から聞く満月はこんなものじゃなかった。
「ゆうくん」
彼女が僕の名を呼ぶ。彼女は独特なリズムとイントネーションで喋る。生まれつき難聴気味の彼女は、フツウの人はそんなふうに話さないということを知らないのだ。彼女はこのフツウじゃない特徴のおかげで両親からも少し疎まれていた、らしい(僕はこのことを伝聞でしかしらないけれど)。……まあ、口の利けない僕には関係のない話だ。
「今日も、かわいいねえ」
当然ながら、彼女に僕の姿は見えていない。ほんの三日前までこの美しい光景をほしいままにしていた彼女には今、世界はどう見えているのだろう。僕はどう見えているのだろう。
僕はこの視界を……角膜を手に入れるまでずっと、彼女には口が二つあるものだと思っていた。手は四本か五本あって、足もそれくらい。耳はなくて、それと、髪の毛は僕と同じくらいの長さなんだと思っていた。
実際は、喋れない僕の分も静寂を埋めてくれていた口はたった一つで、ろくに機能もしない耳はしっかり二つ顔の両側にくっついていた。たった二本しかない腕をわざわざ僕の頭に伸ばしていたことも、たまに僕の鼻先をかすめるこそばゆいものの正体が彼女の腰まである髪の毛であったことも、僕はぜんぜん知らなかった。
「……」
「あは、かわいいよりかっこいいって言われる方が嬉しいかあ」
彼女の肩を二回叩くと、眉尻を下げて困ったように笑う。固く閉じられた、もう二度と開くことのない彼女の瞼の裏で、僕はちゃんと人型を保っているのだろうか。
「目の調子はどう? あの子はちゃんと、ゆうくんに馴染んでる?」
とん、肩を一度叩く。
「よかったあ。あんたたち、顔を合わせれば喧嘩ばっかりだったから心配だったんだよ? なんか拒否反応? みたいなのが起こって、うまくくっつかないんじゃないかーって」
とんとん、二度叩く。
「あは、喧嘩するほど仲がいいってやつかなあ」
とんとん。
「なんだかんだ似てたもんね、あの子とゆうくん」
とんとん。
「……だからね、私、ゆうくんがあの子の角膜を貰ってくれて、すごい嬉しかったんだよ。あの子が……妹が、まだ生きてるみたいで」
……。
「できることなら私がもらいたかったくらいだよ」
……。
「大切に、してね。……って、わざわざ言わなくても大丈夫かあ。ゆうくんイイ子だから」
…………とん。
「あっ肯定したー。ゆうくん、自分のことイイ子だって思ってるんだー。そういうの、ナルシストって言うんだよー」
……。
――目が見えないことを、疎ましく思ったことはない。目が見える生活を、知らなかったから。両親は僕をフツウの人間にしようと何度も角膜の移植手術を受けさせようとしてきたが、怖がっているフリでかわし続けた。実際は、単に興味がなかっただけだ。僕と、彼女と、彼女の妹。三人で構成された世界に、光なんて必要なかった。
『あの子の角膜、ゆうくんがもらってよ』
彼女は泣きながら言った。彼女の妹が病死した、次の日の話だ。何言ってるの、とか、お葬式の準備はいいの、とか、そんなことを訊ける口は持ち合わせていなかった。そもそも、角膜を提供する相手を選ぶことはできないよ。たとえそれが、生前に本人が度々口にしていたことだとしても。……なんてことも、もちろん言えない。
彼女はそれを理解していなかった。言葉を選ばず端的に言えば、まあ要するにあまり賢い人ではないのだ、彼女は。……妹の方はどうだっただろう。多分、あの子はできないって理解したうえで言っていたんだと思う。あの子のそういうところは、最期まで好きになれなかった。
ただ、生まれ持った持病で人生がタイムリミット式だったあの子は眼球から肺から、提供できる全部の臓器を提供するという意思表示をしていて、僕はあの子が亡くなった翌々日に角膜移植の手術を受けた。それだけだ。それだけのことで、彼女は僕の眼球に宿る命があの子のものだと信じて疑わないし、僕もそれを否定しようとは思わない。思わないけれど、でも僕は――
「眼球が潰されてなければ、イイ子のゆうくんじゃなくて私がもらってあげたのになー。……あ、でも、私の目が事故で駄目になった時には、ゆうくんの手術終わってたんだっけ」
僕が生まれて初めて「眩しい」だの「綺麗」だのという言葉を本当の意味で理解しているころ、神様は彼女の世界から光を、夜景を、永遠に奪い去った。お葬式に向かう道中、交通事故だったそうだ。
僕が光を得たこと。彼女が闇に閉ざされたこと。当然ながら、この二つに因果関係なんてない。それでも何となく、あの時僕が手術を受けるという決断をしなければ彼女は事故に遭わなかったのではないか、という奇妙な感覚が、ずっと付きまとっている。彼女にとっては妹のものであるこの目は、だけど僕にとっては、彼女のものなのだ。今僕が見ている景色は、今後見ることになる景色は、余すところなく全て彼女のものなのだ。
そもそも僕に手術を受けるよう泣きながら頼んできたのは彼女の方なのに、それでもこんなことを思うのは、この残酷なまでに美しい夜景すらも業として背負いたいという馬鹿げた願望の所為なのだろうか。……あれ、そういえば。
どうして僕は、彼女が泣きながら頼んだことを知っているのだろう。あの頃の僕は何も見えていなかったはずなのに。声が震えていたとか? 鼻をすする音がしたとか?
……もっと違う根拠があったような気がするけど。
「……ま、あの子もゆうくんだから角膜をあげよう、って気になったんだよね。こんな生意気な姉じゃなくて、ゆうくんだったから」
とん。
「あー! 今の否定するとこだよ!」
そんなんじゃモテないよ、せっかく顔いいのに……なんてぶつくさいう彼女の手を握った。
肩を一回叩けば肯定、二回なら否定。そう決めとけばフリョウヒンのあんたたちでも少しはコミュニケーションできるでしょ。両目で見る世界を知らない僕ですら表情が容易に想像できるほどに嫌味の滲んだ声で、彼女の妹は言い放った。初対面の時の話だ(といっても、僕があの子の面を拝む機会はついに訪れなかったわけだが)。姉と違い、聡い人だった。気に食わないが、この取り決めのおかげで以降の僕らのコミュニケーションは多少円滑になったと思う。
『じゃあ、手を繋いだらなにになるの?』
のんびりした口調で彼女は言った。変な質問だ、と僕は思った。あの子もそう思ったらしく、若干面倒そうに『知らない』とだけ返していた。
「……手を繋いだら、なにになるの?」
あの時と同じ問い。今度は、変だとも面倒だとも思わなかった。僕は口が利けないから、腹の底でどう思おうが同じことなのだが。
「……ゆうちゃんの手、あったかいねえ」
今僕が彼女と同じことを考えているということくらい、彼女に伝わってくれればいいのに。僕の体温が繋いだ手から彼女の方へ流れ出していくのと同じように、彼女の手から体温が流れ込んでくる。僕は彼女の体温が好きだった。僕よりも少し低くて、でも、じんわりと染み込むような、優しい熱。
目が見えていなかった過去の僕にとって、彼女を彼女たらしめているのは、この心地の良い温度だった。多分、彼女が熱でも出して体温が上がりでもしたら、当時の僕は彼女を彼女と認識できなかったと思う。……ん、熱? そっか、そうだ、そういえば。
思い出した。熱かったんだ。あの子の角膜を貰ってほしいと頼み込む彼女の頬(に、手を伸ばしたつもりでいたが、見えていなかったので本当のところはわからない)は、彼女らしからぬ熱を持っていた。僕は一瞬、彼女じゃない別の何かに触れてしまったのだと思ったんだ。熱い、熱い、奇妙な液体の向こうから慣れ親しんだ体温をやっとの思いで見つけて、それで僕は、手に触れている熱い液体は涙で、彼女は泣いているのだとようやく理解した。
彼女の体の奥から溢れる、熱。内臓に直接触ってるみたいだ、と思った。奇妙な背徳感があった。指先から伝播するその熱が全身に駆け巡った瞬間、僕は彼女の言う通り、手術を受けようと決意したのだ。未だ僕の指先に残るあの熱が、僕を光の中へ導き、彼女を暗闇に突き落としたのだ――。
「……ゆうちゃん?」
返事のないことを不安がったのか、彼女が僕の顔を覗き込む。でもごめん、今はたとえ返答のためでも、この手を放したくないんだ。そんな思いが伝わるように願いながら、僕は彼女と触れ合う手に力を込める。
「…………ふふ」
彼女は笑った。
――生まれつきフリョウヒンの僕らは、二人でいたって一人しか世界を見られない。一人しかまともに音を聞けない。一人しか喋れない。
けれど体温だけは、確かに二人分ここにあった。