【短編小説】ただ、笑顔が見たいだけ

 ――アイツの笑顔を、今日、この日に至るまで、見たことがなかった。

 無口で、ツマンネー女。昔からそうだった。この世の不幸を全て背負ってます、みたいなカオしやがって。俺はそれが気に食わなかった。

 小学生の頃から、オレの周りには笑顔が溢れていた。先生のモノマネはクラスメイトに大人気だったし、授業中先生に当てられた時、答えを発表すると見せかけて一発ギャグをかましてやれば教室は笑いに包まれた。ただ一人、あの女を除いて。

 教室中が爆笑の渦に包まれる中、あの女だけがすましたカオで、ばかりかオレの方に視線すら向けず、ぼんやりと虚空を眺めている。そのことに気付いてからというもの、毎日が戦争よ。

 面白いお笑い番組を見れば取り入れられるところがないか探し、いいネタが思いつけば真っ先にあの女に見せた。夕方と呼ぶには暗い時間帯に、わざわざ家に押し掛けてまでネタを披露したこともある。あん時は母さんにメチャクチャ怒られて大変だったな。

 でも、中学、高校と年齢が上がって今日に至るまで、オレの目標は達成されなかった。それどころか年齢が上がるにつれてアイツとはだんだん疎遠になってきちまって――まあ、元々仲が良かったわけではないんだが――。オレから離れるどころか、素行の悪いグループとつるむようになっちまてさ。やっぱりオレなんて、って思ったな。

 でもさ、アイツ、そのグループにいても全然楽しくなさそうなの。グループのリーダー格っぽいヤツに気に入られて、そいつらの間で幅を利かせられるようになっても、表情は小学生の頃から何も変わらない、見慣れすぎた仏頂面。

 感情が表に出にくいタイプなのか、って? アイツが? ……あー、どうだろ。確かに年の割には落ち着いたヤツだったけど、人並み程度に怒ったり悲しんだりはしてたと思う。だから余計に、頑なに笑顔を見せてくれないのが気にかかったというか。

 でもなあ、アイツが今日まで笑わなかったのは、単純にオレの力不足だよ。仮にアイツが感情を出すのが苦手なタイプだろうと、そうでなかろうとさ。

 力不足というか……勇気不足? オレ、結構お笑いのために体張ってるって自覚があったんだけど、でも、あれじゃ足りなかったんだよな。オレに必要だったのは、小手先の知識や技術なんかじゃなく、アイツの笑顔のためなら世界中の誰に嘲笑われても構わないっていう、覚悟だったんだ。

 アイツを笑顔にすんのは、アイツの笑顔を最初に見るのは、お前らじゃない。オレだ。……不良グループに向かってそう啖呵を切ってやれるような、勇気。

 一歩踏み出した先で見た景色は、世界でたった一輪の花は、……アイツの笑顔は、この世のどんなものよりも美しくて、全てをなげうっても構わないと思うような価値があったんだ。

***

 ――覚えている限りでは、人前で笑顔を見せたのは、今日が初めてだ。

 ヘラヘラするな、という父の苛立った声とともに育った。普通の顔をしているつもりの時ですらそう言われるのだから、本当に笑ったりしたらどんな目に遭わされるか分からない。

 もっとも、金も、友人も、安らげる場所もない人生では、「笑え」って言われるより「笑うな」って言われる方がラクだったけどね。

 え? ……そうそう、金ないのよ、ウチ。だからこんなしみったれた国立校に通ってんの。私は私立に行きたかったんだけどね。制服カワイイし、あそこ。

 何がサイアクって、こんな低偏差値の国立校に来たせいで、アイツと離れる機会を失ったこと。アイツはアイツよ。アンタとさっき話してた奴。ったく、一人ずつなんてまだるっこしいことしないで、まとめて話聞けばいいのに。

 死ぬほど鬱陶しい男よ。私、鬱陶しさで死にそうなんて思ったの初めてだわ。小三の頃に初めて同じクラスになったから…………かれこれ七、八年くらいになるのか。その間ずっっっと付きまとってくるんだから、そりゃ、死も覚悟するわって話。

 へ? あー違う違う、そういうストーカー的な話じゃなくて。「私の笑顔が見たい」んだとさ。変わってるよね。大方、自分のギャグで全く笑わない私にムキになっちゃって、引っ込みがつかなくなってただけなんだろうけどさ。バカ男子の考えそうなことだよ。

 だからって、晩ごはんの支度が終わる頃に家訪ねて来て、玄関先で笑えない一発ギャグかまして帰ってった時はもう、馬鹿とかいう次元を超えてたよね。小学生がだよ。あの後親に引くほど怒られたって、翌日学校で笑い話にしてた。少しも笑えなかったけど。

 うんそう、アイツのギャグって笑えないのよ。なんていうか、教室で見る分にはまだ面白いと思うのよ。アイツの笑いって結構、周囲を巻き込むタイプの笑いというか、要はギャラリーありきなのよね。みんなが笑ったりツッコんだりして初めて成立するというかさ。ほら、つまんないアニメでも視聴者のコメントと一緒に見たら面白い、みたいなことない? アレと一緒だよ。

 そのタイプのギャグを、あろうことか面白いツッコミもリアクションもできない私一人に披露するんだから、救いようのない馬鹿だよね。それで笑えるわけねーっつーの。

 まあ馬鹿正直にアイツにこういうアドバイスをするから、アイツも「自分がギャグを改善すれば、いつか笑ってもらえる」なんてお花畑全開のカン違いをして、私にしつこく突っかかってくるワケだけど。

 あまりにも鬱陶しいから、高校ではアイツとは全然タイプの違う、タチの悪そうな不良どもとつるむようにしてやったワケ。アイツ気ぃ小さいし、私がガタイのいい不良と一緒にいれば、今までみたいにしつこくギャグを見せてくることもなくなるだろうって。

 ……まあそんなのは半分建前で、普通に私が楽しそうと思ったから取り入ったってのが実際のトコだけどね。私は元々、アイツみたいな法律の一つも破れないイイ子ちゃんより、このトシでタバコ吸ってるような不良との方がウマが合うんだよ。

 うんそう、こーいうことすんのも初めてじゃないよ? まあ、さすがにこんな高い化粧品は初めてだけどさ。コンビニのパンくらいなら、小学生の頃から。

 ……なに予想外って感じの顔してんのよ。アンタって本当、私らのこと何も知らないのね、センセ。

 えー、なんの話だっけ。不良グループに入ったトコまで聞かせたのか。アイツさ、どうしたと思う? 不良グループに入って手出しできなくなった私に対してさ。諦めるでしょ、フツー。

 それがこともあろうに、「オレも仲間に入れてください」だとよ。アイツの披露したギャグの中で二番目に面白かったよ、アレは。一番は今日のヤツね。

 小学生じゃねえんだから、「いーれーてー」「いーいーよー」なんてなるワケないのにね。ましてや相手はクラス中、いや学校中が恐れる不良のトップよ? まあ、私の彼氏なんだけどさ。

 そん時に笑わなかった理由? 別に、面白かったけど笑うほどではなかったってだけ。……あーでも、どうだろ。

 小学生の頃はさ、私を笑わそうと躍起になってるアイツが、深い穴の底にいる私に手を差し伸べてくれる、神サマみたいに思えたんだよ。蜘蛛の糸的な? アレはお釈迦サマだっけ。

 でもさあ、どんなにその手を掴もうと背伸びして、腕を上に伸ばしてもさ、届かないんだよ。それくらい穴は深くて、ガキ二人が揃って手を伸ばした程度じゃ、どうにもならないの。

 最初から、穴の外に出ることに興味なんてなかった。でも、差し伸べられた手の温度を、知りたいと思った。

 アイツが私の彼に対して「仲間に入れてください」っつった時、アイツはそれまでで一番、穴の中に身を乗り出していた。それでも、届かなかったんだよ。アイツが穴の外にいて、私が中にいる限り、どうやったってその手には触れない。

 だから今日、私がアイツの手に触れた時――アイツが私のいる穴の下まで落ちてきてくれて、その手の温もりを感じられた時、ようやく心から笑えたんだと思う。

***

 ――今日が初めてなんじゃないすかね。彼女が人前で笑ったの。

 あくまで俺が把握している限りでは、ですけど。不良グループを取りまとめるリーダー――俺たちは「ボス」って呼んでます――の女って言ったら普通、ボスがイジメやらカツアゲやらをしてる隣で、ギャハギャハと下品な笑い声を上げるようなのを想像するかもしれませんけど、彼女はそうじゃなかった。

 なんで俺らと一緒にいるのか謎でした。もっとも、俺がそんなことを考えているってボスにバレたら殺されちゃうから、そんなことはおくびにも出しませんでしたが。

 カツアゲも万引きも、ボスの隣で見ているだけではなくて、自分でも実際にやる。ケンカ……はさすがにしなかったけど、弱いものイジメなら積極的に参加してた。ボスにそうしろと命令された風でもなかったから、多分好きでやってたんじゃないですかねぇ。

 別にそういう女が珍しいってわけじゃないけど、それらのことを一切楽しくなさそうにこなす女……いや、人間なんて初めて見ました。俺には理解できませんね。

 ……え? そんな酷いことをしておいて笑っていられる人間の方が理解できない? さすが、腐っても教師ですね。……いや腐ってるでしょ。こんな底辺校の中でも更に底辺、最悪のド底辺クラスを担当してるんですから。

 でも俺も、彼女の笑顔の真意については、理解できる気がしないな。あんなしょうもない動画で笑ったんじゃ、彼女を笑顔にするためとかいうワケわかんない理由でグループに入ろうとしてた陰キャくんが報われないよ。

 動画の中身? そんなの、動画に決まってるじゃないですか。先生のところにも回ってきたでしょう? だから俺、今呼び出されてるんですよね? せっかくテスト期間で午後の授業がないからってのんびりしてたのに。明日まで待てなかったんですか?

 なんであんな動画を、ってのは、動画を撮影した理由ですか? それとも、撮影したものを全世界に大公開した理由? ……残念ながら、後者の理由は俺も知りません。っていうか、俺があの女と陰キャに聞きたいです。

 だから俺が語れる、前者の方の理由について話すと、なんつーか、ウチのグループのならわしみたいなモンなんすよ。

 ホラ、さっき俺、陰キャが俺たちのグループに入ろうとしてきた、みたいな話したじゃないですか。当たり前すけど、アイツみたいな陰キャがクラスの一群グループに入りたいなんて言って、そうなんですか、どうぞどうぞとはならないじゃないですか。というか、ボスが許さない。

 じゃあ、どうすれば入れるのか。少年漫画とかでさ、主人公が何らかの組織に入るため試験を受ける……みたいな展開、あるじゃないですか。ウチのグループにもあるんですよ、そういうのが。

 ボスがスマホカメラを回している目の前で犯罪行為――大抵の場合万引きとかですね、アイツもそうでした――をすること。それが俺たちの試練でした。法を超えられる度胸を示すと共に、絶対にボスに逆らうことのできない、服従の証を握られる。一石二鳥でしょ? このしきたり、最初からあったワケじゃなくて、半年くらい前に急にボスが考えたんだよね。だから初期からグループにいたメンツはそんなことしてねえの。ズリィっすよね。

 表向きにはボスが考案したってことになってますけど、俺はあの女が考えたんじゃないかと睨んでる。ウチのボス、頭はそんなに良くないから。

 ま、とにかくそんなワケで、万引きする陰キャくんの姿をスマホに収めて、晴れて陰キャくんは俺らの仲間入り。もう俺ら大ウケ。先生も経験あると思うけどさ、笑いって、予想が裏切られた瞬間に生まれるんだよな。普段教室の隅で大人しく本読んでるようなマジメな子がボソッと吐いた毒舌とか、妙に印象に残らねえ? あ、コイツそんなこと言うんだって。

 そん時の感覚に近かった。陰キャっつってもアイツはそこまで根暗なタイプではなかったけど、それでもある程度のマジメなイメージはあったし、万引きどころか赤信号も渡ったことなさそうだったからさ。その予想を見事に裏切られたもんで、やるじゃん、舐めてたわ、お前サイコーだよって皆で大笑い。ボスの取った動画を改めて見返しながらさ。

 ……あ、あの女が笑ったのはそん時じゃないよ。相変わらずツマンナそーな顔してんなって思ったのを覚えてるから。っつーか、あんなに皆が笑ってたら、自分が笑えないまでも笑ってるフリくらいするだろ、フツー。空気壊したらどうしようとか、そういう発想はねーのかよって。……ねーか、ボスの女だもんな。

 問題はその後。歓迎会の途中、ボスが少し席を立ったんだよ。荷物はそのままで。したらあの女、そうするのが当然って顔してボスのスマホをいじり出したんす。まあ、これ自体は結構よくあることなんで、別段気に留めなかったっすけど。……っていうか、こんな行動を許すボスもボスですよね。普段は、俺らみたいな連中は舐められたら終わり、って口酸っぱくして言ってるクセに、自分は喧嘩もできねー小娘に舐められまくりじゃねーかって。まあ、あの人なりにちゃんと恋愛してるってコトなんでしょーけどね。

 残虐非道な不良のトップが、裏では一人の女にベタ惚れ……ってなんか、少女漫画の設定みたいっすね。あの二人、タイプも全然違うし、なんで付き合ってるのか外野の俺たちにはわかんないんすよ。多分、二人だけにしかわからない絆がある。そういうトコも少女漫画チックですね。

 やっべ、早く帰りたいのに話脱線させすぎですね。続き続き。あの女はしばらくボスのスマホをいじった後、不愛想にそれを陰キャに手渡した。今思えばっすけど、そん時、「あとは”投稿”ってなってるとこタップするだけだから」って言ってたんすよ、あの女。俺はそれを、音としては認識してたけど、意味までは頭に入ってきてなかったと思う。あの女の言葉を理解してたら、さすがに止めたと思うから。

 陰キャがとん、とスマホを一回だけタップして、あの女にそれを突き返した。俺はその時の光景を、一生忘れないと思う。

 「あっは、マジでやったんだぁ……!」って、聞いたことのない声が聞こえた。それがあの女のものと分かるのに数秒を要した。あの女が笑っている、と脳が理解するまでには、更に数十秒を要したと思う。

 生まれて初めて見たあの女の笑顔は、一般的に言えば、かわいいものだったんだと思う。けど俺は、何か言い知れぬ不安を感じていた。それまで彼女の笑顔を見たことがなかったから、みたいな理由じゃなかったと思う。うまく言葉では言い表せないな……すみませんね。学力も、語彙力もないもんで。虫の知らせ……? ああ、多分そういうヤツです。何となくイヤな予感を感じ取っていた。

 だから二人に訊いたんです。今何した、って。あの女は何も言わないで、俺たちによく見えるよう、スマホの画面を向けてきた。それは、俺もよく利用してる動画アプリ。そうそう、音符マークがアイコンの。先生でも名前くらいは知ってるんですね、興味ないと思ってました。説明の手間が省けて助かります。

 そのアプリを介して、何らかの動画が再生されていた。さっき撮影した、陰キャくんの万引き現場の動画だとすぐに分かった。直前までその動画を皆で見て、笑いの種にしてたワケだから。

 コメントが結構な勢いで、リアルタイムで付いていくのを見て、ボスのスマホから女のアカウントにログインしたんだろうな、とどこか冷静に思ってた。あの女、フォロワー多いんすよ、最悪なことに。

 一方で、えっなんでなんで、とパニックに陥りそうな自分もいた。だってそんなの、取り返しがつかないじゃないですか。俺が直接映った動画でもないのに、心臓がバクバクと嫌な音を立てた。それなのに当の陰キャと女は呑気なもんで、肩を寄せ合いながら二人でボスのスマホを覗き込んでいて。ボスに見つかったら殺されるぞ、いやもうなんかそれ以前の話か、とか考えてた。

 確かに動画は取りましたよ、でもそれはあくまで抑止力というかさ、別に実際にどうこうするつもりはなかったと思うんですよ、ボスも。それなのにあの陰キャは、あろうことか自らの手で、地獄への片道切符を購入した。俺には到底、理解できませんね。

 その後の流れは多分、先生も知っての通りだと思います。動画が学校関係者や、万引きをした店にまであっという間に広がって――情報化社会ってすごいですね――、それをきっかけに店は監視カメラを確認。陰キャはもちろん、姿までバッチリ映ってたもんで学校に連絡がいき、こうして呼び出された……。まあ、カメラに映ってたんじゃ遅かれ早かれこうなってたとは思いますけど、あの動画がアップされなければなあなあで済んでくれたんじゃないかな、とかちょっと思わなくもない……っておっと、反省してないと思われちゃうな、こんなこと言ってると。

 なんであんなことを、って、さっきも似たような質問を聞いた気がしますね。俺が知るワケないじゃないすか、何度も言うようですけど。

 あーでも、店を出る直前に、「オレにはギャラリーがいないと、だから……」みたいなことを、陰キャがぶつくさと言ってたよーな気がする。あんなコトをしでかしといて、何故か俺らに対して申し訳なさそーにしてた。そんなら最初っからやるなっての。

 俺には何のことやらさっぱりっすけど、先生なら何か分かりますか? さっきまで、二人から話を聞いてたんでしょ?

 ん、なんでそんな不満そうな顔してるんすか。……え? あ、なんでこんなことを、って、俺自身について訊いてたんすか? 紛らわしい……。っていうか、どうでもいいでしょそんなこと。……分かりましたよ、話しますよ。

 確かに俺は「入団試験」はとっくにパスしてたし、特段経済的に困窮してたワケでもない。あの場で万引きをする切羽つまった理由は表向きには、ない。

 ただ……ただ、さ。ウチのボス、度胸のある人が好きなんすよ、基本的に。でなきゃ、あの陰キャはボスに失礼な口をきいた最初の段階でぶん殴られて、二度とボスの前にノコノコと姿を現せないようになってたと思います。

 だからさ、万引きとかすると、褒めてくれるの。テストで高得点を取った子供に男親がそうするみたいに、一言ぶっきらぼうに、よくやったな、って。

 それだけ、です。


 大切な人の笑顔のために、あなたはどこまで体を張れますか?

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