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【短編小説】間の悪い男【外出先で一気に書いた】

 ――プルルルル、プルルルル……

 電話の発信音を、僕は祈る気持ちで聞いていた。目の前では、ドアノブにかけられた白いタオルが揺れている――。

 間の悪い人生を送ってきた。

 小学三年生の頃、音楽の教科書を忘れてしまったことがある。普段は前日に次の日の用意を全てランドセルに入れてから眠りにつくのだけれど、その時は確か、何かの曲の歌詞を覚える宿題が出ていたため机の上でそれを開き、そのまま忘れてしまったのだろう。

 忘れました、と授業開始時に先生に伝えたとき、その先生――少しナヨッとした印象の、男の先生だった――が、「君たちはいつもいつもいつも! そうやって忘れましたって!」と、ややヒステリックに怒鳴った。

 小学校の音楽がテストのない副教科であるためか、一部のクラスメイトがあまり授業に意欲的でなく、忘れ物が多いことには気づいていた。その上、先生は悪く言えば生徒に少し舐められてしまっていたせいか、生徒は忘れ物をしても「すみませ~ん以後気をつけま~す」とヘラヘラ笑いながら謝ること、それを先生がよく思っていないことも知っていた。

 しかし誓って言うが、僕が音楽の授業で忘れ物をしたのは、この一回だけだった。しかし先生は、僕が不真面目でいい加減な生徒の代表であるかのように、僕を詰った。

 たまたま、その日の先生は機嫌が悪かったのかもしれない。液体がたまりにたまったコップに最後の一滴を注いで、溢れさせたのが僕だったのかもしれない。ひとつ確かに言えることは、その日、忘れ物をしたのは僕だけだったということだ。

 この一件はあくまでサンプルで、僕の人生は一事が万事、二十四時間三百六十五日こんな調子だ。テストで悪い点を取った日に限って親の機嫌が悪くてお説教が長引いたり、友人たちと遊びに行くことになっても僕だけうまく予定が噛み合わず、結局他のメンバーだけで行ってもらうことになるのもしょっちゅうだ。

 ちょうどトイレに立ったタイミングで電話がかかってきて折り返すことになるのは日常茶飯事だし、逆に、この時間帯ならいつでもかけていいよ、と言われた時間にかけたのに出てもらえず、「ごめん、来客の対応してた」と折り返しでかかってきた電話の向こうで言われることも多い。

 毎回そんな調子なのに、それでもそばにいてくれる友人がいることは、せめてもの救いだと思う。

 そんな僕だが、三ヶ月ほど前、人生で一番の不運に見舞われた。その日はたまたま朝寝坊してしまって、たまたま普段使ってる通学路より多少近道だが狭くて人通りの少ない路地裏を通って学校に行こうとし、たまたま、体格のいい男とぶつかってしまった。クラスメイトの大豪くんだ、と気づいたのは、すみませんと反射的に謝って顔を上げた時だった。

 僕を正面から睨み付けた大豪くんは一言、「……俺は今、虫の居所が悪いんだよ」と言った。

 大豪くんが素行の悪い連中――いわゆる不良とよくつるむようになっていたのは、知っていた。そのきっかけが、彼の父が病気で入院したことで、自暴自棄になってしまったためであることも。

 そしてこれは後に知ったのだが、そんな彼と彼の父を働きながら支えていた彼の母が過労で倒れたのが、僕が彼とぶつかった前日の夜の出来事だった。

 大豪くんは僕を睨んだ。まるで、全ての不幸の原因が僕であるかのように。

 その後のことは、よく覚えていない。ただ、家に帰る頃には財布に入っていたお金はなくなっていたし、鳩尾のあたりがずきずきと痛んでいた。

 それですめばよかったのだが、どうやら僕は彼に目をつけられてしまったらしい。それから毎日が地獄だった。連日金を持ってこいと言われ、足りないと言えば親の財布から抜けと言われる。お金を持っていかなければ蹴られるし、持っていっても殴られる。

 なんで目をつけられたのが僕だったんだろう、という疑問が、僕がそういう星の元に生まれたからか、という諦めに変わるのは早かった。そうして、どうして僕は僕なのだろう、僕であることをやめてしまいたい、と考えるようになったのは、多分自然なことなんだと思う。

 来世は、もうちょっとまともな人間に生まれ変わりたいな。いや、人間じゃなくてもいいか。とにかく、家を一歩出た瞬間に雨が降りだすような間の悪さがなければ――僕でなければ、なんでもいいや。

 ドアノブに、結んで輪にしたタオルを引っ掻けながらそんなことを思った。人は座った状態でも首が吊れるのだと、調べてみて初めて知った。

 そこまでお膳立てしてさあ死ぬぞとなったとき、ふと頭に浮かんだのは、この世への未練や死ぬことへの恐怖などではなく、親友の真人のことだった。

 間が悪く、いつも貧乏くじを引いてばっかりの僕と一緒に、泥を被ってくれる人。お前といるとロクなことがない、と言われ慣れていた僕に、お前といると飽きないな、なんて聞き慣れない言葉と共に、笑顔を向けてくれた人。僕が僕のままでいいと肯定してくれた、初めての人。

 今回の大豪くんの件も、彼が同じクラスだったら何か違っていたのかもしれないが、運悪く別々のクラスになってしまった。

 声が聞きたい、とほとんど衝動的に思った。普段はよっぽどのことがないと電話なんてかけない、どうせ繋がらなくて、後でかけ直してもらう羽目になるから。

 これは賭けだだった。間の悪い人生、けれどこの一回、たった一回、放課後で授業のないこの時間にかけた電話を取ってもらうという、僕以外の人にとっては当たり前の、でも僕にとっての奇跡が起こってくれたら。僕は僕でいいんだといつかの笑顔を電話口の向こうで滲ませてくれたなら、あるいは。

 ――プルルルル、プルルルル……。

 息を飲む。コール音が何回鳴ったかは数えていない。ただ、音と音の間の刹那の静寂が訪れる度、今にもがチャリと真人が電話を取る音がして、あいつの優しい声が僕の耳に届くのではないかと淡い期待を抱く。

 ――プルルルル、プルルルル、プ……。

 ふと発信音が止まる、同時に僕の心臓も止まりそうになった。

 ――おかけになった電話をお呼びしましたが、お出になりません……。

「……」

 そりゃそうか、と頭のどこかで納得していた。ここまで間の悪い人生を送ってきた僕にとって一番大切な決断を下そうとしている今日この日に限って、そんな奇跡的な幸運が舞い降りるなんて運命、神様が仕組むはずがなかったのだ。

 それでも、妙にすっきりした気持ちでドアノブにかけられたタオルと向き合えているのだから、やっぱりあいつに電話をかけてみてよかったのだと思う。これで……

 ――プルルルルルル!

「!」

 机の上に起きかけたスマホが震える(……よく考えたら、もう死ぬのだから別に丁寧に机の上に置くのではなく、床に放っておいてもよかったのではないか)。電話だ。相手は、真人。

「……っ、もしもし!」

 ほとんど反射的に通話に出る。

「何の用だったの、さっき」

 電話口の真人は、少し苛立っているように感じた。僕は慌てて弁明する(さっきまで死ぬつもりだったのだから、真人から僕への評価なんて気にしても仕方ないのでは、と頭の片隅で思いながら)。

「っいや、別にたいした用があったわけじゃなくて、なんとなくっていうか、あの……」
「……」
「……ごめん、タイミング、悪かった……?」

 自分でもはっきりわかるほど、声が尻すぼみになっていた。

「……ったくお前は、本当に毎度毎度……」
「ごめんっ! 本当にごめん!」
「今から出かけるところだったんだけど」
「ごめんね、もう切っていいから……」

 僕は何をしているのだろう。死の間際まで誰かに迷惑をかけて。

「……いいよ、もう。行く気なくした」
「え」
「今日はもういいよ。別に急ぎの用事じゃないし」
「で、でも僕も別に用事は……」
「でもお前は今日、今この瞬間、俺と話したかったんだろ?」
「……!」

 電話でよかった、と思った。そうでなければ、泣いているのが真人にバレてしまう。

「せっかくだしなんかテキトーに駄弁ってよーぜ。そっちのクラスどんな感じ? 俺の方さー……」

 僕が僕のまま生きることに、まだ抵抗が残っている。けれど、真人の親友というこの立ち位置を手放したら、間の悪い僕のことだ、何度生まれ変わっても同じポジションに収まることはできないだろう。

 僕の涙が乾くまで、真人の声は電話口で響いていた。

***

 間の悪い親友だった。それでも。

「今かけてくるかね、よりによって……」

 タオルの結び目がほどけないか、軽く引っ張って確認する。その最中に響いた福音に手放しで身を委ねられるほど楽観的にはなれなかったが、それでも、完全に手放してしまえるほど、俺は無欲ではなかったようだ。

 しかしこのタイミングで、用もないのに何となくでかけてくるなんて、本当。

「間の悪い奴」


 なんか知らんけどやることなすことタイミングが悪い奴、私。

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