西加奈子「くもをさがす」の感想まとめ
思ったことを書いてきたら,意外と感想文くらいの長さになったので,まとめてみる。まとめるというより,集めて並べただけだけど。毎日すこしずつ,歩きながら,生きながら,対話はすすんでいくんだな。
(本を買う)
紀伊國屋書店でかった「くもをさがす」,ほんまは,闘病エッセイなんて,たとえ西加奈子さんの作でも読みたくない気分だとおもってたんだけど,本屋でポスターみたいのに「右胸に癌」って書いてるのみて,一緒やんと思って,読むことにした。
紀伊國屋で買ったら,だるまのカードがついてて
「今,あなたに読まれるのを待っている。そこにいるあなた,今,間違いなく息をしている,生きているあなたに。」って書いてる。
なんの涙かしらんけど涙が出て来る。
生きてる限りことばはでてくる,
なんにもまとめずにかっこもつけずに,日記書いてみようと思った。
(二日後くらい)
5時に目がさめて電気をつけた。6時まで読書。お風呂にお湯をためて,結局7時34分まで読書をした。「くもをさがす」読了。
これ本当に私のために書いてくれたんだとわかった。いま生きてる,右胸に4.1centimeterのがんを持ってる,はだかでひとりでいる,よくぼんやりする,自信をなくす,いきいきする瞬間もある,歌を歌う,歩く,ごはんを食べる,泣く,笑う,部屋を散らかし片付ける,本を読む,思い悩む,テレビを見て時間をごまかす,なんということもない私のために書かれた。私が生きているから,生きてて大切だから,なのだろうと思った。
わたしは診察室では,なんだか従順に振る舞おうとしている(ドクターからするとどこが従順なんだよと思うかもしらんけど)。このまま手術受けたら,わたし数年後に自分と大喧嘩するか,鬱になってしまうような気がする。それは困る。私は話をしなくてはならない,自分を黙らせてはいけない。オフになりそうな心のなかのスイッチをオフにしちゃいけない。私のことを真剣に,がんを排除するためだけではなく,私の人間としての幸福についても,共に考えてくれる人と。
(土曜日)
今日は仕事で心理検査が三つある。いつもより早めに起きて、探偵ナイトスクープみながら支度して八時過ぎに学校きた。イチョウ並木を歩きながら考えた。西加奈子さんは「くもをさがす」を私のために書いてくれたと,私は読みながらそう思ったのだけど,今朝読んだ,その本についてのインタビュー記事で,カナコさんは"せっかくやから金にしよ"と思ったから書いたのもあるのだと,非常に率直な発言が出ていた。
なるほどな,なかなか身も蓋もない言い方だけど,たしかにそれはそう,自分がもし小説家なら,やはりそう思う気がする。それで気がついたんだが,自分は心理学者のはしくれ(のはしくれのはしくれ・・・と続けたくなるのは、自分の自信のなさからくる)なのだから,自分も心理学者として(あるいは心理臨床家として,こちらならはしくれ×1くらいで自称できる),私だって金にしようという意気込みで,この体験を研究したり,自分なりに書いたりしたらいいんじゃないか。
それは,ひいては自分が社会的な自分でもありつづけること,つまり尊厳をそこなわないでがん患者でいられるということにもつながるのではないか?私は,たとえばはだかになってガス室に入れられるときみたいな,とほうもない甲斐性のなさみたいなものを,診察室やMRIや骨シンチの装置の上で,感じていたのではないか?だとしたら,職業的な自分も,ナイーブな自分も,みんな自己紹介してしまえばいいのではないか?
(そうかもしれない)そう思うと,そうだ主治医にも自己紹介して,こう言おう。
自分は心理職だからか,どうも身体に注目した話をされればされるほど,どうしてもこころのことが気になってしまう。せっかくならこの特性をいかして,がん患者として自分の当事者研究的なものをこの機会にやってしまおうと思う。
そんな決意を担当医に伝えているイメージがわいてきた。想像の中の担当医は迷惑顔だ。けどそれは,あまり気にしなくてもいいのかもしれないと思う。ちょっと背筋が伸びたか,好奇心が出て,少し気分もよい気がした。
「くもをさがす」を読んでから,心の中で西加奈子さんと対話しているような感覚が芽生えた。
あったこともない西さんに,カナコありがとう,これわたしのために書いてくれたんやな。届いたでほんまに。ほんでありがとう,私も(めちゃくちゃ嫌やけど)手術するから,どういう風になっても,ぎりぎりまで,最後まで,ちゃんと自分のこころと身体のボスでい続けられるようにするから。応援しててな,やってみるわな。
と話しかけている。