人間不信って一生治らないのかな
こんなタイトルだと誤解を招きそうなので最初に言っておくと、メンタルの調子が崩れているわけではなく…というかむしろ調子が良いからこそ気が付いたことを綴ります。
どんなに機嫌や調子が良くても、どんなに周りの人達のことが好きでも、どんなに人と話すのが楽しくても、やっぱり根底にある「自分は誰とも関わらない方がいい」という考えが覆るわけではないみたいです。このことを今日なんとなく実感して、自分のことなのにそれが何とも不思議だった。
今日は仕事中、チャットしたいことがあるのになかなか送れないことが何度もあり、それ自体はいつものことなんだけど、あまりにも毎日のことなので流石に「チャットひとつ満足にできない自分って…」とつい自分に苛立ちを覚えてしまった。ちなみにこれは仕事に限った話ではなく、相手が家族であろうと、友人であろうと、ネット上の知らない人であろうと、チャットには時間がかかる。
なんでこんなにチャットが怖いんだろうと考えてみたが、やっぱり相手からどう思われるかということがものすごく気になるからだ。変なこと言って失望されること、馬鹿に思われることが怖い。分かりにくくないかな?誤解されないかな?冷たく見えないかな?と何度も文を読み直すのも、相手のためを思ってるというより「何言ってるんだこいつ」とか「感じ悪いな」と思われたくないからだ。私は人から嫌われることや馬鹿にされることを異常に恐れている。
人に嫌われたくない。失望されたくない。馬鹿に思われたくない。
しかし、自分の心の内を出せば出すほど、きっといつか嫌われるだろうという気持ちがどんどん増してくる。それなら最初から自分を表に出さなければよかったのに。上司も先輩も同期もみんな優しくて尊敬できるばかりについ好きになってしまって、話していると楽しくて、つい話すようになってしまった。だけど話しすぎるとどんどんボロが出て、本当の自分、しょうもない自分がバレてしまう。誰も気にしてないであろうことは分かっているのに、「うわ自分って本当に嫌な奴だな」と思ってしまうのだ。今日だけでも何度思ったか分からない。
人間に生きる価値なんて必要ないと思っているけど、それでも「自分って価値のない人間だな」となんだかんだ気にしてしまう。
自分に価値がないと思ってしまうこと自体は、別にそこから「死にたい」みたいな感情に繋がるわけじゃないから別にどうでもいいんだけど、自分は頭も性格も要領も悪くて何の取り柄も無いしょうもない人間だと分かっているのに他人からそう思われるのはめちゃくちゃ嫌。そう思われたくないから頑張った結果、褒められたらすごく嬉しくなるけど、その一方で「本当は違うのに」「騙してごめんなさい」「いつか失望されるんだろうな」「嫌われるのが怖い」という感情に襲われ、心の奥底では罪悪感がしぶとく根を張る。
褒められたいけど、褒められたいと思いたくない。褒められたいと思ってしまうような承認欲求の高い自分は理想の自分じゃない。こういう矛盾だらけの自分が本当に気持ち悪くて大嫌い。
人からはいずれ嫌われるだろうから、その敵意を感じ取る前に、平和な関係のうちにどこかにとんずらしてしまいたい。人と関わりたいけど、最終的には一人になって、一人で死にたい。人に嫌われるくらいなら、迷惑をかけるくらいなら、自分に失望するくらいなら、一人のほうがいい。
・・・
とまあ、「チャット打つの怖い」というところからこんなところまで考えてしまいました。そんなこと考えなくていいから仕事集中しろよ。
で、ふと、そういえば以前「自分は人と関わらないほうがいい」という感情を綴った記事を投稿していたなと思い出し、お昼休みに読み返してみた。
当時はガッツリとメンタルの調子を崩していたので、そのせいでネガティブ思考に陥ってしまっていたのかと思いきや、メンタル的には非常に元気な今改めて読み返してみても、「会社行きたくない」と「涙が溢れてきた」と「次の日が不安すぎて残業してしまい苦しい」以外は同じ気持ちだった。不思議だなあ。
何が不思議って、なんでこんなに人間不信なのか、その原因に心当たりが全くないことだ。虐待やイジメに遭っていたとか、誰かに裏切られたとか、嫌われていたとか、人間の二面性を間近で見てきたとか、そういうトラウマ的経験は特にない。
中学時代に嫌な奴がいたせいで不登校になりかけたとはいえ、人間不信はその前からだから特に関係ない。もちろん、それが拍車をかけた可能性は否定できないけども。
生まれつきなんですかね。じゃあ治らないのかな。というか、治したいのかどうかもよく分からない。だって、心から信用できる人いないから。
人間不信とか言い出すと、そもそも「信じる」って何?という話になりますが、私の場合は、他の記事でも似たようなことを書いたかもしれないけど、この人からは好かれているだろう、嫌われていないだろう、馬鹿にされていないだろう、信用されているだろう、と思えることじゃないかな。
「その基準で『信じられる人がいない』ってことは、上司、先輩、同期、友人、家族から嫌われてると思ってるの?」と聞かれたら、いやさすがに彼らから本気で嫌われているとは思っていないけど、この記事内で何度も書いたように、このまま関わっていたらきっといずれは嫌われるだろうということは根拠もなく思ってしまうのだ。それって信じているとは言えないんじゃないのかな。
とはいえ、実を言うと、年末年始あたりで「あれ、私、人のこと信じられてるかも」と思う出来事もあった。職場のリーダーと先輩と飲みに行ったとき、誰にも話したことのなかった自分の話を結構してしまったのだ。話しすぎたことに罪悪感はありつつも後悔はなく、「なぜ話せたのだろう」と考えていたら、「この人たちに話しても多分この人たちは私を否定しないだろう、と思えたからだ」と気が付いて、え、これって人を信じられているんじゃない!?と嬉しく思ったものだ。
だけど、今思ったこと。
「人を否定する」というのは「行動」だ。その行動を取るか否かは、あくまでその人が選択すること。つまりその人の人格や性格の問題と言ってよい。しかし、「嫌う」や「失望」は行動ではなく「感情」だ。自らの意思に基づいて選択するものではなく、自然発生するもの。その人がどんなに人格者でも、感情をコントロールすることはできない。
私は、人のことをあくまで「一個人」としては信用しているのだろう。だから、「この人たちは私を否定しない」と思えたのは私相手だからという話ではなく、「この人たちは面と向かって他人を否定するような人じゃない」と相手そのものを信じているだけなんだ。
しかし、人のことを「私と関わる相手」として捉えると、「この人は私を嫌わないだろう」とは信用できない。嫌うとは誰もが持つ感情だから、それ自体は咎められることじゃない。相手がどんなに人格者でも関係ないのだ。そう考えると、やはり自分は誰のことも信用できていないのだろう。
そういえば今日は上司と面談をしたのだが、色々話せて楽しかったし、ちょっと不安に思っていたことも伝えられて有意義な時間だったけど、話せば話すほど「うわなんか自分褒められ待ちみたいでめちゃくちゃキモいな」と自分にドン引きした。また、上司から「配属されたときはすごく緊張してる様子だったから、話してくれるようになって嬉しい」と言われたとき、ああ…自分なんかが話すようになってごめんなさい…と思ってしまった。嬉しいと言ってくれてるのに申し訳なく思ってしまうこと自体も申し訳ない。
まあ要するに、私の人間不信とは、自己中心的な思考、被害妄想、自意識過剰、承認欲求、理想主義、完璧主義、自己否定、低い自己肯定感、などによるものなのでしょう。理想とは程遠い要素ばかりで嫌気が差す。こんな自分はきっと一生孤独感が拭えないのだろうな。
2025年2月20日 しろくま